古典音楽

「大兼久節」- 古典音楽

工工四

三線を再生印刷・保存

 

歌詞

 

名護の大兼久なぐぬうふがにく 馬走らちいしやうしやうんまはらちいしょしゃ

舟走らちいしやうしやふにはらちいしょしゃ 我浦泊わうらどぅまゐ

 

名護の大兼久で馬を走らせ楽しや。

船を走らせ楽しや、我が名護の港。

大兼久うふがにく

  • 昔は名護市街にある大中おおなか大東おおひがし大北おおきた大西おおにし大南おおみなみの5区は大兼久村うふがにくむらと呼ばれる集落であった。

浦泊

 

解説

大兼久節うふがにくぶし」は名護なご市街の景観を賛美してまれた歌曲です。

現在の名護市庁舎を中心とする町一帯は当時、大兼久村うふがにくむらと呼ばれていました。

”兼久”の語源は”砂地”を意味し、名護湾から寄せてくる砂が堆積たいせきして村周辺に形成されたことに由来しています。

名護の豊かな資源、催事の賑わい、美しいを描くように広がる名護湾なごわんの景観をうたった郷土の賛歌です。

 

名護市街、名護湾を望む

名護市街、名護湾を望む

 

補足

 

琉球競馬場

当時、大兼久村うふがにくむらでは足運びの良い名護湾なごわんの砂を利用して大兼久馬場うふがにくばば(※1)と呼ばれる琉球競馬場(※2)を開設し、競技大会が催されるようになりました。

また、旧暦四月になると豊作を祈願する畦払いあぶしばれーと呼ばれる年中行事がおこなわれ、馬に乗ったノロ(祭司)が各地域を遙拝ようはいして周った後、余興として競馬が催されていたそうです。

 

大兼久馬場(※1)

現在の名護市街を通る県道84号の名護十字路から幸地川こうちがわまでの約300メートルを走路としていた競馬場です。

大兼久馬場跡の東側には樹齢約300年の「市の木」ひんぷんガジュマルが、時を越えて現在も名護の町を見守っています。

 

琉球競馬場(※2)

琉球競馬(ンマハラシー)は琉球王朝の士族の娯楽としてはじまり、やがて庶民の間にも広まりましたが戦争を機に途絶えてしまいました。

通常の競馬とは異なり、走る速さだけではなく足並みや姿勢の美しさで勝敗が決まります。

 

名護のひんぷんガジュマル

 

ちらし

大兼久節うふがにくぶし」は昔節んかしぶし(※3)である「ぢゃんな節じゃんなぶし」のちらし(※4)として演奏されます。

 

浜辺を歩く女性(追憶シーン)
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昔節んかしぶし(※3)

古典音楽の中でも古くから存在し、演奏時間、演奏技術ともに大曲である楽曲を大節うふぶしと呼び、創作された年代や曲想により、昔節んかしぶし大昔節うふんかしぶし中昔節なかんかしぶしに分類されます。

作田節ちくてんぶし」、「ぢやんな節ぢゃんなぶし」、「首里節しゅいぶし」、「しよどん節しゅどぅんぶし」、「暁節あかつぃちぶし」の五曲を総称して、昔節んかしぶしまたは前の五節めえぬいつぃふしと呼んでいます。

また、「茶屋節ちゃやぶし」、「昔蝶節んかしはびるぶし」、「長ぢやんな節ながぢゃんなぶし」、「仲節なかぶし」、「十七八節じゅうしちはちぶし」の五曲を総称して、大昔節うふんかしぶしまたは後の五節あとぅぬいつぃふしと呼びます。

 

ちらし(※4)

つないで演奏する終結部の楽曲。

楽曲の熱を徐々に散らしながらおさまりをもたせる構成をとります。

御供ともいいます。

 


 

参考文献(沖縄の本)のイメージ画像
参考文献一覧

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