上り口説:歌詞
1.
旅の出で立ち 観音堂 千手観音 伏せ拝で 黄金酌取て 立ち別る
2.
袖に降る露 押し払ひ 大道松原 歩み行く 行けば八幡 崇元寺
3.
美栄地高橋 打渡て 袖を連ねて 諸人の 行くも帰るも 中の橋
4.
沖の側まで 親子兄弟 連れて別ゆる 旅衣 袖と袖とに 露涙
5.
船の艫綱 疾く解くと 舟子勇みて 真帆引けば 風や真艫に 午未
6.
又も廻り逢ふ ご縁とて 招く扇や 三重城 残波岬も 後に見て
7.
伊平屋渡り立つ波 押し添へて 道の島々 見渡せば 七島渡中も 灘安く
8.
燃ゆる{立ちゆる} 煙や 硫黄が島 佐多の岬に 走り並で ”エイ” あれに見ゆるは 御開聞 富士に見まがふ 桜島
訳
1.
旅に出るときは、観音堂の千手観音を拝み、大切な宴席でお酒を交わしてお別れをつげる
2.
袖に降る露を払い大道松原を歩んでいくと、やがて八幡(安里八幡宮)を過ぎ崇元寺に到る
3.
美栄地高橋(美栄橋)を渡る。ここは大勢の人々が多く行き来する長堤の真ん中に位置した橋である(別訳:美栄地高橋を渡り、沢山の人々が行き来する道を通り過ぎて中の橋へ着いた)
4.
沖(沖の寺)の側まで親子兄弟に見送られて別れたあと、旅衣の袖々を涙でぬらす
5.
船の艫綱を素早く解き、船子(水夫)が勇ましく帆を正面に引けば、風は船尾から南南西へ順風に吹いてゆく
6.
また巡り会うご縁と願い、招く扇に三重城、そして残波岬も後に見て
7.
伊平屋の荒波が船を押し添えるようにして、道中の島々を見渡すと難所の七島も無事に渡っていける
8.
立ち上る煙は硫黄が島(硫黄島)で、いよいよ佐多岬に近づき向こうに見えるのは御開聞(開聞岳)、そして富士に見間違うほどよく似た桜島に到る
口説
七句と五句を繰り返すリズミカルな七五調に道行の情景を述べていきます。
旅立ちの行程
「上り口説」の歌詞にある行程を追って地図ルートを作成しました。
下の画像をクリックする(スマホは指で広げる)と拡大表示になります。
また、寺院や建造物などの解説も下記の袋綴じに全てまとめましたので併せてご覧ください。
観音堂
沖縄県那覇市首里山川町にある寺院。
正式には「慈眼院」の名称ですが「首里観音堂」とも呼ばれている。
1618年、那覇の町や海が一望できる小高い丘陵に創建され、国の平安と航海安全などを祈願する。
詳しくは、「慈眼院」のホームページへ
千手観音
「首里観音堂」のご本尊で千手観音菩薩という。
千本の手に一眼をもつとされ、生命のあるものすべてを救済しようとする慈悲の力を持つ。
詳しくは、「慈眼院」のホームページへ
大道松原
現在の「首里観音堂」付近から大道地域にかけて続く松並木の道。
戦後、道路の拡張整備により松並木は伐採され周辺の様子は大きく変わる。
参考:那覇歴史博物館
安里八幡宮
沖縄県那覇市安里にある神社。
1466年、武運を祈願するお宮として創建され、合格祈願、商売繁盛などを祈願する。
詳しくは、「沖縄県神社庁」のホームページへ
崇元寺
沖縄県那覇市泊にあった寺院。
歴代の琉球国王の霊位(魂)を祀っているお寺で、創建した時代ははっきりとしていない。
沖縄戦で寺院のほとんどが破壊され、現在は石門と石碑のみが残されている。
美栄地高橋
現在の美栄橋駅付近に建造された石造りの橋。
昔の那覇は浮島と呼ばれる島であったため、全長約1kmからなる堤と7つの橋を建設して渡っていた。
美栄橋はその真ん中に位置し、人が行き来していた。
美栄橋は戦後、区画整理によって失われました。
沖の寺
現在の沖縄県那覇市奥武山町に移された沖宮と、沖縄県那覇市曙に移された別当寺の臨海寺の二つを指す。
1908年までは三重城へ向かう長堤の途中で隣り合うように建てられていた。
三重城
琉球王国時代より貿易港として栄えた那覇港の沖合(4つの橋が連なる長堤の先)に築かれ、当初は海賊から防衛するための役割を担っていた。
明治から大正にかけて長堤の部分は埋め立てられる。
残波岬
沖縄県中頭郡読谷村字宇座にある岬。
高さ30m~40mの隆起した珊瑚礁の断崖絶壁が約2km続く雄大な景勝地。
伊平屋島
沖縄県島尻郡伊平屋村(伊平屋伊是名諸島に属する島)。
沖縄本島の今帰仁村運天港より、41.1kmにある沖縄県最北端の有人島。
七島
トカラ列島に点在している島々。
七島は、宝島、悪石島、諏訪之瀬島、平島、中之島、臥蛇島、口之島を指す。
東シナ海から流れてくる海流のうねりがあるため、航海の難所とされていた。
硫黄が島
鹿児島県鹿児島郡三島村に位置する島(硫黄島)。
硫黄のために周辺の海が黄色に変色していることから、黄海ヶ島とも呼ばれていた。
御開聞
鹿児島県指宿市に位置する開聞岳のことを指す。
標高924mの山で、なだらかで美しい姿から別名薩摩富士とも呼ばれている。
佐多の岬
鹿児島県肝属郡大隅町に位置する九州最南端にある岬。
亜熱帯の植物(ソテツ、ビロウなど)が生い茂り、天気の良い日には岬から種子島、屋久島を眺望することができる。
山川港
鹿児島県指宿市にある鹿児島湾入口に位置する港。
港は湾曲した入江になっており、上空からみると鶴のくちばしにみえることから「鶴の港」と呼ばれ、古くから貿易港として栄えていた。
鰹節の生産量が日本一としても知られている。
桜島
鹿児島県鹿児島市に位置する桜島。
最高峰(標高1,117m)の北岳をはじめ複数の火山が連なって形成されている。
もともとは島でしたが、1914年に起きた噴火により陸続きとなる。
演目:解説
あらまし
「上り口説」の「上り」とは、琉球王府の使節が薩摩へ公務に出向く旅程を指し、演目は首里を出発して薩摩の山川港に入港するまでの様子を描いています。
旅の道中の情景を七五調の「口説」で述べ、四拍子のリズムにあわせて両手に持つ金銀扇を巧みにあつかいながら演じていきます。
みどころ
前奏より、金銀扇を両手に持ち《水流し※1》の構えで下手奥から直線を歩んで登場し、舞台中央で基本立ちになります。
「上り口説」1番の歌い出しより扇に振りをつけ、”千手観音 伏せ拝で”の一節で膝をついて拝む所作に旅の無事を祈願します。
2番は旅立ちの意気込みをあらたにして、”大道松原 歩み行く”の一節で歩行の動作をとりながら道行く姿を凛々しく表現し、続く3番”行くも帰るも”の一節では舞台中央より前に進んでから振り返り、また後方へ進む動きに交差する人々の様子を描いていきます。
4番”袖と袖とに”では袖口に扇を交互に添えてお別れの悲しみあらわし、5番”真帆引けば”の一節では船の帆をみたてるように扇を持った両手を大きく振りかざして出発の時を迎えます。
6番は船出とともに徐々に離れてゆく景色を描きながら、”後に見て”の一節で後ろを振り返って故郷を想う心をあらわします。
7番”伊平屋渡り立つ波 押し添へて”で、波にみたてながら前方に扇を2回振る所作に大海原を勇ましく突き進む様子を描いて、最後の8番では航海の終盤を薩摩の景観に映し重ねて踊りを納めていきます。
※流派によっては、演目構成や所作が異なる場合があります。
《水流し※1》
扇を持つ両手を前方に半円を描くように構える所作。
補足
上り口説囃子:歌詞
1.
旅の出で立ち 観音堂 千手観音 伏せ拝で 黄金酌取て 立ち別る
囃子(さてさて まこと嘉利吉 今日の佳る日 船頭方から 風や午の方 明日の出帆 ただ今御下り みゆんのけたれば 我すた二才達も 親子別れの 玉の盃 一つ戴き めぐりめぐりて 殿内に行ぢやれば 又々 黄金の御酒 おたべめしやうち 旦那お始め 千手観音 御暇召しやうち 那覇にお下り ”サーサ”)
2.
袖に降る露 押し払ひ 大道松原 歩み行く 行けば八幡 崇元寺
囃子(あれあれ お伴の面々 赤さふたらや 月に照り行く 大道松原 急ぎ通れば 八幡お宮に 皆手を合わせて 祈る心は 錦重ねて 帰るお願 ”サーサ”)
3.
美栄地高橋 打渡て 袖を連ねて 諸人の 行くも帰るも 中の橋
囃子(美栄地高橋 渡るごとくに 大和の御船も {沖縄船も} 後や先にも 真帆引き通れば 行くも帰るも 絹の上から 親子兄弟 心安くに 待ちゆる嬉しさ ”サーサ”)
4.
沖の側まで 親子兄弟 連れて別ゆる 旅衣 袖と袖とに 露涙
囃子(袖と袖とに 涙ふくめて 親子別れや 喉もつまって 物も言われゆめ {いちむんむんじゅう} 何れ嘉利吉 岩乗しち来う やがて伝馬に 御伏つみ上げ 御船に乗りつく ”サーサ”)
5.
船のとも綱 疾く解くと 舟子勇みて 真帆引けば 風や真艫に 午未
囃子(船頭佐事船子 勇み勇みて たのみぎやならんな 錨ひき乗せ 帆も引き上げ 手綱引き取て それそれ出づれば 旦那おはじめ 我すた二才達も 盆の上さめ ”サーサ”)
6.
又も廻り逢ふ ご縁とて 招く扇や 三重城 残波岬も 後に見て
囃子(さてさて 嘉利吉御船や 幾度召しやうちも 招く扇の 返す如くに 大和と沖縄 絹の上から 真帆引き通れば 一目も見らぬ 残波岬や 後に見なちゆて ”サーサ”)
7.
伊平屋渡立つ波 押し添へて 道の島々 見渡せば 七島渡中も 灘安く
囃子(旦那おはじめ 我すた二才達も 舟酔もさぬ如 船頭呼で来よて {あれやいいじま} あれやとくしま これや与論か 名に負う立つ波 静かなる代に 七島渡中に 三日の御祝 ”サーサ”)
8.
燃ゆる(立ちゆる)煙や 硫黄が島 佐多の岬に 走り並で ”エイ” あれに見ゆるは 御開聞 富士に見まがふ 桜島
囃子(あれあれ 燃ゆる(立ちゆる)煙や 硫黄が島さめ ”サーサ” 引き上げ 風声勇めば 佐多の岬も 手とて見ゆさ あれに見ゆるは 御開聞さめ 富士に見紛ふ 桜島かな 嬉し誇らしや ”サーサ”)
御前風調: 夢の間に(いつの間に)着きやさ 山川港 ”ヨーンナ”
※{ }内の歌詞は、流派によって歌われ方が異なる箇所です。
楷船、馬艦船
当初、琉球王府は薩摩へ上る時の公用船として楷船を使用していました。
しかし、貨物を一緒に積載すると航行が困難であるため、後に琉球王府が所有する大型の馬艦船に乗って薩摩へ上るようになりました。
※薩摩の御用船に乗って海を渡っていた時期もあります。
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参考文献一覧
書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において参考にさせて頂いた全ての文献をご紹介します。 1.『定本 琉球国由来記』 著者:外間 守 ...
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