渡りざう:器楽曲
「渡りざう」は歌唱を伴わない楽器のみで演奏される器楽曲です。(インストゥルメンタル)
久志の若按司:唱え
やあ大主 やあ砂田の子 手配のごとに
美里から越来 具志川 与那城 勝連に忍ば
訳
大主、砂田、手配りのように、
美里から越来、具志川、与那城、勝連に(順次)忍びゆくぞ。
探索の行程
唱え(台詞)に出てくる探索ルートを地図にしました。
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立川の大主:唱え
この事やいふぃん 迂闊としちすまぬ
言いし事儘に たうたう お供しやべら
訳
この事(道中)は少しの油断も出来ません。
ご指示の通り、いざお供いたします。
称号、位階
15世紀頃より、琉球王府は位階制度と呼ばれる身分の序列を制定し、18世紀になると「九品十八階」の制度が確立されました。
按司は国王の親族に位置する特権階級で、若按司は按司の子にあたります。
各地域を領地として与えられ、自陣の領地の名をとって家名にする習わしでありました。
王族の「按司」、「若按司」は最上位に位置しますが「九品十八階」には含まれないため、「大主」が最も上の位階に位置し、「子」は一般士族の品外となります。
当時は、身に着ける冠(ハチマチ)や簪(ジーファー)の色や素材によって等級、身分を区別していました。
道行口説:歌詞
1.
命限りの 出で立ちに 有りし様変へ 編笠に 深く面を 隠してぞ
2.
久志の山路 分け出でて 行けば程なく 金武の寺 お宮立ち寄り 伏し拝み
3.
南無や観音 大菩薩 慈悲の功徳や 千代松に 急ぎ引合はせ 賜れてり
4.
心に念じ 礼拝し いざやいざやと 立ち出でて 伊芸や屋嘉村 行き過ぎて
5.
歩みかねたる 七日浜 石川走川 打渡て エイ 今ど美里の 伊波村に 急ぎ急いで 忍で来る
訳
1.
命がけの出で立たち(外出する時の身なり)に、以前と姿を変えて編笠を深くかぶり顔を隠して、
2.
久志の山路をかき分けて行けば程なくして金武の寺(金武観音寺)に着き、お宮(金武宮)に立ち寄り拝んで、
3.
南無の経文(お経)を唱え、観音大菩薩の慈悲の御利益を受け、千代松(天願の若按司)に早く会わせてくださいと祈る。
4.
心に念じ礼拝して、いざと立ち出でて、伊芸、屋嘉を通り過ぎ、
5.
歩み進むことが難しい七日浜、石川の急流を渡って今、美里の伊波村に急ぎ急いで忍び着いた。
金武観音寺、金武宮
- 金武観音寺は16世紀頃に国頭郡金武町金武の地に創建されたお寺。境内東側にある鍾乳洞には御神体として金武宮が崇め奉られている。
七日浜
- 現在のうるま市石川赤崎周辺から国頭郡金武町に続く長い浜辺のことを指し、交通が整備されていない当時は難所のエリア。現在は屋嘉ビーチとも呼ばれる。※「補足」欄に「七日浜」について追記。
美里の伊波村
- 現在のうるま市石川伊波に位置し、古くの地名が美里間切伊覇村であったことから「美里の伊波村」と示しています。また、演目冒頭の「久志の若按司:唱え(台詞)」に出てくる「美里」は、現在の沖縄市美里(美里間切美里村)を示しています。
道行の行程
「道行口説」の歌詞に出てくる各地名を地図にしました。
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砂田の子:唱え
され 美里伊波村に着きやべたん
訳
美里の伊波村に到着しました。
久志の若按司:唱え
たうたう 宿々の数々残らずに忍ば
訳
いざ、全ての宿を残らず人目につかぬよう(探し出そう)。
立川の大主:唱え
拝み留めやべて
訳
承知しました。
瀧落し菅撹:器楽曲
「瀧落菅撹」は歌唱を伴わない楽器のみで演奏される器楽曲です。(インストゥルメンタル)
演目:解説
あらまし
「久志の若按司道行口説」は琉球王国の国劇である組踊(※1)「久志の若按司」の作中にある一場面を独立させて舞踊化した演目になります。
三人一組で演じる舞台構成をとり、舞手が台詞を述べる「唱え」は組踊の様式を受け継いだ演出表現になります。
編笠をかぶり腰に大刀、手には杖串(※2)を持って三人の心情を各々の所作にあらわしながら道中の風景に映し重ねて演じます。
組踊(※1)
琉球王国時代(1719年)に踊奉行(式典の際に舞台を指揮、指導する役職)の任命を受けた玉城朝薫により創始された歌舞劇です。
台詞、舞踊、音楽の三つの要素から構成された古典芸能で、1972年に国の重要無形文化財に指定され、2010年には世界のユネスコ無形文化遺産に登録されました。
杖串(※2)
杖を象徴し、演目の用途によって使い分けができるように短い竹(約60cm)で作られた小道具です。
琉球舞踊や組踊で演じられる道行の場、刀を表象する所作に用いられます。
口説
七句と五句を繰り返すリズミカルな七五調に道行の情景を述べていきます。かつて日本本土より伝わった節まわしとされ、基本は大和言葉を用いて歌います。
組踊「久志の若按司」
配下であった謝名大主の騙し討ちに遇い、殺害された天願按司。
残された千代松(若按司(息子))と妹の乙鶴は、難を逃れるため従兄弟にあたる久志の若按司を頼りに助けを求めに向かう道中、謝名大主の臣下である富盛大主の一味に捕まってしまいます。
このことを知った久志の若按司は配下の立川の大主と砂田の子と共に、二人が捕まっている居場所を探し出し、とうとう救出することに成功します。
その後、久志の若按司は捕えた富盛大主に偽りの情報を伝え、敵方同士を仲違いさせる作戦に出ます。
ついには、罠とは知らずに久志城へ攻め込んできた謝名大主を待ち構えて、見事に天願按司の仇を討ちとる内容の物語となっています。
みどころ
演目は器楽曲「渡りざう」、「瀧落菅撹」、舞手による「唱え(台詞)」、「道行口説」で構成されます。
器楽曲「渡りざう」の演奏より、編笠をかぶって腰に大刀を指し、手には杖串を持って三人が登場します。
各々の唱え(台詞)は役柄により吟声(発声)に特徴を持たせ、所作を交えながら展開し、台詞を唱え終わると間髪入れずに道行の場面に移る1コマはこの演目の一つの見所です。
「道行口説」では手に持つ杖串に気迫を込め、二才踊りの力強さをもって三人が一連の振りを合わせながら道行の情景を描いていきます。
1番”深く面を 隠してぞ”の一節で、面を下に落として人目に立たぬ様子をあらわし、長い旅立ちの決意を滲ませます。
2番”お宮立ち寄り 伏し拝み”では、膝をつき両手を広げて拝む所作に任務の成功を祈り、つづく3番”急ぎ引合はせ 賜れてり”の一節も同じように拝む所作を組み入れ、捕らわれの身になっている千代松と乙鶴の無事を願います。
4番”いざやいざやと 立ち出でて”の一節では、杖串を前に鋭くかざして前進する動きに、救出へ向かう道中の早る胸の内をあらわします。
5番”歩みかねたる 七日浜”では、足を交互に高く上げて歩む動きに、難所である七日浜の情景を写実的に表現します。
その後、目的地に到着した三人がいよいよ救出に向かう一場面を台詞で唱え、演目の最後に器楽曲「瀧落菅撹」の演奏で、三者三様の所作を取り入れ、舞台四方に形を変えながら緩急をつけ、まとまりよく踊りを納めていきます。
※流派によっては、演目構成や所作が異なる場合があります。
古典舞踊の位置づけ
組踊「久志の若按司」は作者、創作年代共に不明です。
明治二十二(1889)年に書籍『琉球浄瑠璃』に本作が掲載され、沖縄をはじめ全国的に広く知られるようになりました。
琉球舞踊の演目としては、昭和七(1932)年に初めて組踊から独立して舞踊化されたと云われています。
また昭和三十五(1960)年には真境名由康師、島袋光裕師によって振り付けられ次第に踊られるようになりました。参考:『琉舞手帖/大道勇』
年代的には雑踊り(※3)、または創作舞踊としての位置づけになりますが、古典舞踊二才踊り「波平大主道行口説」と同様に古典の様式を踏襲しているため、本サイトにおいては古典舞踊(その他)として紹介しています。
雑踊り(※3)
明治16年(1883)頃、琉球芸能が初めて入場料を取って興行がおこなわれて以来、芝居小屋で創作振り付けられた近代の舞踊。
琉球王朝が崩壊した後、歓待芸能を職としていた者が率いて踊りを披露していました。
略歴
■真境名由康(1889-1982)
沖縄県那覇市に生まれる。
琉球芸能役者、舞踊家、眞境名本流眞薫会初代家元、国指定重要無形文化財、「組踊」保持者。
戦後の沖縄伝統芸能の復興、継承発展に大きく寄与し、珊瑚座の結成をはじめ往年に渡り活躍される。
代表する作品に創作舞踊の「渡ん地舟(ワタンジャー)」、「糸満乙女」、「初春」、組踊の「金武寺の虎千代」、「人盗人」「雪払い」、歌劇の「伊江島ハンドー小」がある。
■島袋光裕(1893-1987)
沖縄県那覇市に生まれる。
琉球芸能役者、舞踊家、書家、島袋本流紫の会初代家元、国指定重要無形文化財「組踊」保持者。
伝統芸能の研究を重ね、郷土演劇界に大きく寄与し、戦後に組織された民政府文化部の「松竹梅」三劇団結成に携わるなど活躍される。
代表する作品に「葉かんだ」、「みやらび」、「若衆揚口説」、「謝名兄弟」、「夫婦鶴」、著書に「石扇回想録」がある。
補足
七日浜
久志から金武、七日浜周辺の道筋は現在のように交通が整備されていなかったため、当時は険しい山道や海岸の道を通り抜ける難所でありました。
※詳しくは、内閣府 沖縄総合事務局 北部国道事務所をご覧ください。
浜辺には「七日浜の碑」が建てられており、以下名称の由来が記されています。
この文面を読み解くことで道行の情景を伺い知ることができます。
「尚徳王が革命によって尚円王の時代になったので、その一族が国頭に逃げる途中人目を避けるため昼は山の中にひそみ夜な夜な歩き歩行困難の場所で七日かかったので七日浜の由来といわれている。
風光明媚であり長い砂浜の美しい海岸である。」
昭和五十八年十月二十五日 竣工
引用:「七日浜の碑」より。
略歴
■尚徳王(1441-1469)
第一尚氏王統の第7代国王
各国との交易や関係を積極的におこない市場を拡大する。
喜界島の遠征により領土の拡大をはかる。
強硬的な政策で他者の信頼を失い(諸説あり)、後の第二尚氏王統の尚円王(金丸)の蜂起により王の座を奪われたことにより自害し、第一尚氏王統の最後の国王となる。
在位の期間に、「安里八幡宮」、「神徳寺」、「天界寺」を創建する。
古典音楽
古典音楽のカテゴリーでは、「渡りざう」、「 瀧落し」の曲目について解説しています。
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参考文献一覧
書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において参考にさせて頂いた全ての文献をご紹介します。 尚、引用した文章、一部特有の歴史的見解に関しては各解説ページの文末に該 ...
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