ストーリー紹介
【城間和枝】
プロフィール
1939年、沖縄県大宜味村に生まれる。
1959年、兄弟と南米ボリビアへ移住。
26歳の時、具志頭村出身の城間信孝さんと結婚を機にブラジルへ転住する。
現地の言葉でクストゥーラと呼ばれる縫製業に従事するかたわら、沖縄の伝統芸能の継承、発展に尽力する。
- ブラジル琉球舞踊協会 会長(~2023年)
- 玉城流玉扇会 城間和枝琉舞道場 代表
インタビューにあたり
ブラジルは世界で唯一、日本47都道府県の県人会が存在する国といわれています。
都道府県別の移住者数をみると戦前は、首位が熊本県、次いで福岡県、沖縄県に続きます。
また、戦後は首位が入れ替わり、沖縄県、熊本県、東京都の順に続き、第二次世界大戦において凄惨な地上戦の影響を受けた沖縄は戦後の移住者が最も多く、戦前と合わせると日系移民全体の約10%を占めています。(参照:ブラジル日報2019年版)
ブラジルの沖縄県人会は現在で44支部があり、サンパウロ州に40支部、パラナー州に2支部、マットグロッソ州に1支部、連邦直轄区(首都)に1支部が登録されています。
今回は、主要河川のティエテ川が流れるサンパウロ市北西に位置するカーザベルデを訪問し、この地区で活動されている婦人会の皆様にお話を伺いました。
移民の足跡
ブラジルにおける移民の歴史は1908年にコーヒー耕地の契約労働者として海を渡った集団渡航にはじまります。
第一陣を乗せた蒸気船は神戸港を出航し、52日間という長い航海を経てサントス港に到着します。
ブラジルの日系社会ではこの日(6月18日)を「移民の日」として定めています。
到着後、船を確認した現地のブラジル人は「船内にはゴミが見当たらず清潔を保っており、整然として規律正しく、皆、きちんとした身なりで他の移民とは明らかに違う様子であった」と日本人に対して強い印象を受けたと云います。
一方、コーヒー耕地の生活は想像以上に過酷なもので、住居や食事など衛生環境の劣悪さ、また、労働賃金がまともに支払われず、貯蓄どころか日々の生活を賄うことも困難であったため、やがて大半の移民が新天地を求めてこの地を去ることになります。
ブラジル日本移民八十年史によると「コーヒー耕地での悪条件が移民たちの自主独立への意欲を強く燃え上がらせた」とあります。
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新天地
新天地では、主に米や豆類などを栽培しながら着実に資金をたくわえ、数年後には土地を購入するなど、日本移民の暮らしはブラジルの地に深く根差すようになります。
また、都市部へ転出した移民は飲食業、理髪店、雑貨店などの事業を起こし、軒並みお店が建ち並ぶと、そこに自然と人が集まるようになり、サンパウロのリベルダーデをはじめとする日本人街が次第に形成されていきました。
社会貢献
数々の苦難を乗り越えるごとに生活環境は改善され、ブラジル国内でも日本移民に対する評価は徐々に高まっていきます。
食文化に関しては農作物の品種改良を成功させ、栽培から販売までを農業生産者が一貫して行うことで、ブラジル国内における生鮮食材の普及を飛躍的に伸ばします。
また、スポーツ文化では柔道や空手などを通じて人々の克己心や礼儀作法を磨き、社会生活を営む上での倫理の形成を促します。
政治、経済、学術、医療の分野においても顕著な活動を行い、日本からブラジルに渡った移民は単にお金を稼ぐためということだけではなく、相手国の国づくりに大きく貢献し、ブラジル社会において信用を築いてきました。
開拓スピリット
ブラジルには「ジャポネース・ガランチード(Japones Garantido)」という言葉があります。
直訳すると「日本人は(保証付き)信用できる」という意味になります。
当初はポルトガル語が上手に話せない日本移民を揶揄して使われた言葉だったそうですが、現在は勤勉で誠実な日本人に対する尊称の意味が込められているそうです。
過酷な状況から抜け出そうと必死に解決策を求め、異国の地で生き抜く決意と覚悟、そして日本で育んできた教養を活かし、ブラジルの地に息づいた開拓スピリットはさらに深くへと根差していきます。
カーザベルデ地区
カーザベルデはリベルダーデ(日本人街)を中心とする市街地からやや離れた郊外にあり、こうした特定の場所に同県出身者が集中する傾向は、血縁、地縁関係を主体とした呼び寄せによるものであると云われています。
公民館の役割を果たしてきた支部会館では婦人会のメンバーが集まり、持ち寄ったブラジル式の沖縄料理を囲んでゆんたくに花を咲かせます。
皆さんはとても仲が良いですね。
婦人会のメンバー
沖縄にはユイマールという言葉があるよ。ユイは結ぶ、マールは廻る(順番)という意味。
入植時からたくさんの思いを共有し、助け合いながら生きてきた。
みんなは家族のようなもの。
移住当初、地域に根付いた職業は現地の言葉で「クストゥーラ」と呼ばれる縫製業でした。
家の一部を作業場とする家内制手工業の性格上、親族や同郷のネットワークを動員して形成された時代背景が伺えます。
日常の営みの中で織り込まれた相互扶助によって、移住地におけるローカリゼーションを確立し、経済的にも精神的にも助け合いながら困難な生活を乗り越えてきました。
二足のわらじを履いて
ゆんたくが一息つくと、午後からは故郷の芸能である「琉球舞踊」の稽古がはじまります。
今回取材した日は、長年に渡って婦人会の指導にあたられていた城間和枝先生の任期最後の日に重なりました。
また、今年(2023年)、城間和枝先生はブラジル琉球舞踊協会会長の席も若い世代にバトンを引き継ぐ予定です。
ブラジルへ移り住んだ当初、家族を養うために縫製業を始め、二足のわらじを履きながら琉球舞踊の稽古に勤しみ、多いときには小さい子供からお年寄りまで約150名の門下生に指導をおこなってきたそうです。
城間 和枝先生
移住してきた当初は沖縄に帰るつもりでいましたが、家族や仲間に支えてもらいながらこの地に残りました。
生活は大変でも故郷の芸能を通して、沖縄とのつながりを感じることができるのがうれしかったです。
城間 和枝先生
一人でも多くのみんなに舞台の楽しさを感じてもらえるように頑張ってきたことです。
最後に
これからの世代へ、一つお言葉を頂いてもよろしいでしょうか。
城間 和枝さん
私たちは高齢になり、時代の波についていけなくなりました。これからは皆さんが前に立って伝統を引き継ぎ、沖縄とのご縁を結んでいってください。
移民の歴史はさまざまな条件下で常に生活の厳しさを背負って展開してきました。
故郷の芸能は単にコミュニティの娯楽としてではなく、歌や踊りを通して心の豊かさを求め、明日への勤労の源泉にかえていく結びつきがあるのではないかと思います。
地域に根差した風土や言葉、長い歴史の中で育まれた沖縄の伝統芸能は、いつの時代も人と人とを結ぶ一本の糸としてこれからも受け継がれていくでしょう。
沖縄と掛けて漢字の糸偏と解きます。
「連綿と受け継がれてきた沖縄の伝統は、一本の糸が紡ぎだす絆と広がるご縁によって結ばれている。」
参考文書
・ディスカバーニッケイ
・ブラジル日報
・ブラジル国サンパウロ市カーザベルデ地区における沖縄県出身移民の分布と職業構成/琉球大学