舞踊

「久志の若按司道行口説」 - 古典舞踊/二才踊り

2020年5月12日

渡りざうわたりぞう:器楽曲

 

歌唱かしょうともなわない楽器のみで演奏される器楽曲きがくきょく。(インストゥルメンタル)

 

久志の若按司くしぬわかあじ:唱え(台詞)

 

やあ大主やあうふぬし やあ砂田の子やあすぃなだぬし 手配のごとにてぃくばいぬぐとぅに

美里から越来んざとぅからぐいく 具志川ぐしちゃ 与那城ゆなぐしぃく 勝連に忍ばかつぃりんにしぬば

 

大主うふぬし砂田すぃなだ手配てくばりのように、

美里から越来、具志川、与那城、勝連に(順次)忍びゆくぞ。

 

探索の行程

久志の若按司くしぬわかあじ」のとなえ(台詞せりふ)に出てくる各地名を地図におこしました。

下の画像をクリックする(スマホは指で広げる)と拡大表示になります。

 

美里から勝連までの地図

探索場所の地図

 

立川の大主たちかわぬうふぬし:唱え(台詞)

 

この事やいふぃんくぬぐとぅやいふぃん 迂闊としちすまぬうかつとぅしちすぃまん

言いし事儘にいいしぐとぅままに たうたうとうとう お供しやべらをぅとぅむしゃびら

 

この事(道中)は少しの油断も出来ません。

ご指示の通り、いざおともいたします。

 

称号しょうごう位階いかい

15世紀頃より、琉球王府りゅうきゅうおうふ位階いかい制度と呼ばれる身分の序列じょれつを制定し、18世紀になると「九品十八階」の制度が確立されました。

按司あじは国王の親族に位置する特権階級で、若按司わかあじ按司あじにあたります。

各地域を領地として与えられ、自陣じじんの領地の名をとって家名にするならわしでありました。

王族の「按司あじ」、「若按司わかあじ」は最上位に位置しますが「九品十八階」には含まれないため、「大主うふぬし」が最も上の位階いかいに位置し、「しー」は一般士族の品外となります。

当時は、身に着ける冠(ハチマチ)やかんざし(ジーファー)の色や素材によって等級、身分を区別していました。

詳しくは下記のサイトよりご覧ください。

琉球の位階Wikipedia

 

琉球王国の冠の画像

琉球王国の冠 - 提供:東京国立博物館

琉球王国時代のジーファー(かんざし)の画像

琉球王国時代の簪(ジーファー)- 提供:東京国立博物館

 

道行口説みちゆきくどぅち:歌詞

 

1.

命限りのいぬちかぢりぬ 出で立ちにいんぢたちに 有りし様変へありしさまかい 編笠にあみがさに 深く面をふかくうむてぃをぅ 隠してぞかくすぃてぃず

2.

久志の山路くしぬやまみち 分け出でてわちいんぢてぃ 行けば程なくゆきばふどぅなく 金武の寺ちんぬてぃら お宮立ち寄りうみやたちゆい 伏し拝みふしをぅがみ

3.

南無や観音なむやくゎんぬん 大菩薩だいぶさつぃ 慈悲の功徳やじふぃぬくどぅくや 千代松にちゆまつぃに 急ぎ引合はせいすぢふぃちゃわし 賜れてりたぼりてい

4.

心に念じくくるににんじ 礼拝しりーはいし いざやいざやといざやいざやとぅ 立ち出でてたちいんぢてぃ 伊芸や屋嘉村いぢややかむら 行き過ぎてゆちすぃぢてぃ

5.

歩みかねたるあゆみかにたる 七日浜なんかばま 石川走川いしちゃはいかわ 打渡てうちわたてぃ エイえい 今ど美里のなまどぅんざとぅぬ 伊波村にいふぁむらに 急ぎ急いでいすぢいすいでぃ 忍で来るしぬでぃちゃる

 

1.

命がけの出で立たち(外出する時の身なり)に、以前と姿を変えて編笠あみがさを深くかぶり顔を隠して、

2.

久志くし山路やまみちをかき分けて行けば程なくして金武の寺(金武観音寺きんかんのんじ)に着き、お宮(金武宮きんぐう)に立ち寄りおがんで、

3.

南無なむ経文きょうもん(お経)をとなえ、観音大菩薩の慈悲じひ御利益ごりやくを受け、千代松(天願の若按司わかあじ)に早く会わせてくださいと祈る。

4.

心に念じ礼拝れいはいして、いざと立ち出でて、伊芸、屋嘉を通り過ぎ、

5.

歩み進むことが難しい七日浜なんかばま、石川の急流を渡って今、美里の伊波村に急ぎ急いで忍び着いた。

 

口説くどぅち

18世紀頃に本土から伝わってきた音楽の形式で、七句と五句を繰り返す七五調しちごちょうのリズミカルなふしまわしに心情しんじょうを述べていきます。(琉歌りゅうかは八八八六調の形式)

 

金武観音寺きんかんのんじ金武宮きんぐう

金武観音寺きんかんのんじは、16世紀頃に国頭郡金武町金武くにがみぐんきんちょうきんの地に創建そうけんされたお寺です。

境内東側けいだいひがしがわにある鍾乳洞しょうにゅうどうには御神体ごしんたいとして金武宮きんぐうあがたてまつられています。

 

金武観音寺(金武の寺)の画像

金武観音寺(金武の寺)

 

七日浜なんかばま

現在のうるま市石川赤崎いしかわあかさき周辺から国頭郡金武町くにがみぐんきんちょうに続く長い浜辺のことを指し、交通が整備されていない当時は難所なんしょのエリアとされていました。

現在は屋嘉やかビーチとも呼ばれています。

※ページ下位の「補足」欄に「七日浜なんかばま」について追記しました。

 

金武町国道329号線の画像

金武町国道329号線(七日浜周辺) - 提供:キーストンスタジオ所蔵 那覇市歴史博物館提供

 

美里の伊波村んざとぅぬいふぁむら

現在のうるま市石川伊波いしかわいはに位置し、古くの地名が美里間切伊覇村であったことから「美里の伊波村んざとぅぬいふぁむら」と示しています。

また、演目冒頭の「久志の若按司くしぬわかあじとなえ(台詞せりふ)」に出てくる「美里」は、現在の沖縄市美里おきなわしみさと(美里間切美里村)を示しています。

 

道行みちゆき行程こうてい

道行口説みちゆきくどぅち」の歌詞に出てくる各地名を地図におこしてみました。

下の画像をクリックする(スマホは指で広げる)と拡大表示になります。

 

久志から伊波村までの地図

道行の行程(ルート)

 

砂田の子すぃなだぬし:唱え(台詞)

 

されさり 美里伊波村に着きやべたんんざとぅいふぁむらにちちゃびたん

 

美里の伊波村に到着しました。

 

久志の若按司くしぬわかあじ:唱え(台詞)

 

たうたうとうとう 宿々の数々残らずに忍ばやどやどぬかずぃかずぃぬくらずぃにしぬば

 

いざ、全ての宿を残らず人目につかぬよう(探し出そう)。

 

立川の大主たちかわぬうふぬし:唱え(台詞)

 

拝み留めやべてやあうふぬし

 

承知しょうちしました。

 

瀧落したちをぅとぅしすぃがかつぃ:器楽曲

 

歌唱かしょうともなわない楽器のみで演奏される器楽曲きがくきょく。(インストゥルメンタル)

 

画像準備中のイラスト

画像準備中です。もうしばらくお待ちください。

 

久志の若按司道行口説くしぬわかあじみちゆきくどぅち」:演目解説

 

あらまし

久志の若按司道行口説くしぬわかあじみちゆきくどぅち」は、琉球王国の国劇である組踊くみうどぅい(※1)「久志の若按司くしぬわかあじ」の作中にある一場面を独立させて舞踊化した演目になります。

三人一組で演じる舞台構成をとり、舞手まいて台詞せりふを述べる「となえ」は組踊くみうどぅいの様式をいだ演出表現になります。

編笠あみがさをかぶり腰に大刀たち、手には杖串ちーぐし(※2)を持って、三人の心情しんじょう各々おのおの所作しょさにあらわしながら道中どうちゅうの風景に映し重ね演じていきます。

 

組踊「久志の若按司」

配下はいかであった謝名大主じゃなうふぬしだまちにい、殺害された天願按司てぃんぐゎんあじ

残された千代松(若按司わかあじ(息子))と妹の乙鶴は、なんのがれるため従兄弟いとこにあたる久志の若按司くしぬわかあじを頼りに助けを求めに向かう道中どうちゅう謝名大主じゃなうふぬし臣下しんかである富盛大主とぅむいうふぬし一味いちみつかまってしまいます。

このことを知った久志の若按司くしぬわかあじは、配下はいか立川の大主たちかわぬうふぬし砂田の子すぃなだぬしと共に、二人がつかまっている居場所を探し出し、とうとう救出することに成功します。

その後、久志の若按司くしぬわかあじとらえた富盛大主とぅむいうふぬしいつわりの情報を伝え、敵方てきかた同士を仲違なかたがいさせる作戦に出ます。

ついには、わなとは知らずに久志城へ攻め込んできた謝名大主じゃなうふぬしを待ち構えて、見事に天願按司てぃんぐゎんあじかたきちとる内容の物語となっています。

 

村芝居/久志の若按司の画像

久志の若按司 - 提供:新里トミ氏蔵 那覇市歴史博物館 『大琉球写真帖』 関連資料

 

組踊くみうどぅい(※1)

琉球王国時代の1719年に踊奉行おどりぶぎょう(式典の際に舞台を指揮、指導する役職)の任命を受けた玉城朝薫たまぐすくちょうくん師により創始された歌舞劇かぶげきです。

台詞せりふ、舞踊、音楽の三つの要素から構成された古典芸能で、1972年に国の重要無形文化財に指定され、2010年には世界のユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 

杖串ちーぐし(※2)

杖を象徴し、演目の用途によって使い分けができるように短い竹(約60cm)で作られた小道具です。

琉球舞踊や組踊で演じられる道行みちゆきの場、かたな表象ひょうしょうする所作しょさに用いられます。

 

古典舞踊の位置づけ

組踊くみうどぅい久志の若按司くしぬわかあじ」は、作者、創作年代共に不明です。

明治二十二(1889)年に書籍『琉球浄瑠璃りゅうきゅうじょうるり松山傳十郎まつやまでんじゅうろう著が発行されると沖縄をはじめ全国的に広く知られるようになりました。

琉球舞踊としては、昭和七(1932)年に初めて組踊くみうどぅいから独立して舞踊化されたとあり、昭和しょうわ三十五(1960)年には、真境名由康まじきなゆうこう師、島袋光裕しまぶくろこうゆう師によって振り付けられ、沖縄芝居や村芝居ではよく演じられた作品になります。(参考:『琉舞手帖』参考文献:一覧

年代的には雑踊りぞううどぅい、または創作舞踊としての位置づけになりますが、古典舞踊二才踊りにーせいうどぅい波平大主道行口説ふぁんじゃうふぬしみちゆきくどぅち」と同様に古典の様式ようしき踏襲とうしゅうしているため、本サイトにおいては古典舞踊(その他)として紹介いたします。

 

※略歴

真境名由康まじきなゆうこう(1889-1982)
沖縄県那覇市に生まれる。
琉球芸能役者、舞踊家、眞境名本流眞薫会初代家元、国指定重要無形文化財、「組踊くみうどぅい」保持者。
戦後の沖縄伝統芸能の復興、継承発展に大きく寄与し、珊瑚座さんござの結成をはじめ、往年に渡り活躍される。
代表する作品に、創作舞踊の「渡ん地舟(ワタンジャー)」、「糸満乙女」、「初春」、組踊の「金武寺の虎千代」、「人盗人」「雪払い」、歌劇の「伊江島ハンドー小」がある。

島袋光裕しまぶくろこうゆう(1893-1987)
沖縄県那覇市に生まれる。
琉球芸能役者、舞踊家、書家、島袋本流紫の会初代家元、国指定重要無形文化財「組踊くみうどぅい」保持者。
伝統芸能の研究を重ね、郷土演劇界に大きく寄与し、戦後に組織された民政府文化部の「松竹梅」三劇団結成に携わるなど活躍される。
代表する作品に、「葉かんだ」、「みやらび」、「若衆揚口説」、「謝名兄弟」、「夫婦鶴」、著書に「石扇回想録」がある。

 

みどころ

演目は、器楽曲きがくきょく渡りざうわたりぞう」、「瀧落したちをぅとぅしすぃがかつぃ」、舞手による「唱えとな台詞せりふ)」、「道行口説みちゆきくどぅち」で構成されています。

器楽曲きがくきょく渡りざうわたりぞう」の演奏より、編笠あみがさをかぶって腰に大刀たちを指し、手には杖串ちーぐし(※2)を持って三人が登場します。

各々のとなえ(台詞せりふ)は、役柄により吟声ぎんせい(発声)に特徴を持たせて、所作しょさまじえながら展開し、台詞せりふとなえ終わると間髪かんぱつれずに道行みちゆきの場面に移る1コマはこの演目の一つの見所です。

道行口説みちゆきくどぅち」では手に持つ杖串ちーぐし(※2)に気迫を込め、二才踊りにーせいうどぅいの力強さをもって三人が一連の振りを合わせながら道行みちゆき情景じょうけいを描いていきます。

1番”深く面をふかくうむてぃをぅ 隠してぞかくすぃてぃず”の一節で、面を下に落として人目に立たぬ様子をあらわし、長い旅立ちの決意をにじませます。

2番”お宮立ち寄りうみやたちゆい 伏し拝みふしをぅがみ”では、ひざをつき両手を広げておが所作しょさに任務の成功を祈り、つづく3番”急ぎ引合はせいすぢふぃちゃわし 賜れてりたぼりてい”の一節も同じようにおが所作しょさを組み入れ、らわれの身になっている千代松と乙鶴の無事を願います。

4番”いざやいざやといざやいざやとぅ 立ち出でてたちいんぢてぃ”の一節では、杖串ちーぐし(※2)を前に鋭くかざして前進する動きに、救出へ向かう道中どうちゅうはやる胸の内をあらわします。

5番”歩みかねたるあゆみかにたる 七日浜なんかばま”では、足を交互に高く上げて歩む動きに、難所なんしょである七日浜なんかばまの情景を写実的しゃじつてきに表現していきます。

その後、目的地に到着した三人がいよいよ救出に向かう一場面を台詞せりふとなえ、演目の最後に器楽曲きがくきょく瀧落したちをぅとぅしすぃがかつぃ」の演奏で、三者三様さんしゃさんよう所作しょさを取り入れ、舞台四方しほうに形を変えながら緩急かんきゅうをつけ、まとまりよく踊りを納めていきます。

流派によっては、演目構成や所作が異なる場合があります。

 

補足

 

七日浜なんかばま

久志くしから金武きん七日浜なんかばま周辺の道筋みちすじは現在のように交通が整備されていなかったため、当時は険しい山道や海岸の道を通り抜ける難所なんしょでありました。

※詳しくは、内閣府 沖縄総合事務局 北部国道事務所をご覧ください。

この浜辺には「七日浜なんかばま」が建てられており、以下名称の由来が記されています。この文面を読み解くことで、道行みちゆき情景じょうけいうかがることができます。

「尚徳王が革命によって尚円王の時代になったので、その一族が国頭に逃げる途中人目を避けるため昼は山の中にひそみ夜な夜な歩き歩行困難の場所で七日かかったので七日浜の由来といわれている。

風光明媚であり長い砂浜の美しい海岸である。」

昭和五十八年十月二十五日 竣工

引用:「七日浜なんかばま」より。

 

※略歴

尚徳王しょうとくおう(1441-1469)
第一尚氏王統しょうしおうとうの第7代国王
各国との交易こうえきや関係を積極的におこない市場を拡大する。
喜界島きかいじま遠征えんせいにより領土の拡大をはかる。
強硬的きょうこうてきな政策で他者の信頼を失い(諸説あり)、後の第二尚氏王統しょうしおうとう尚円王しょうえんおう金丸かなまる)の蜂起ほうきにより王の座を奪われたことにより自害し、第一尚氏王統しょうしおうとうの最後の国王となる。
在位の期間に、「安里八幡宮あさとはちまんぐう」、「神徳寺じんとくじ」、「天界寺てんかいじ」を創建そうけんする。

 


 

参考文献(本)のイメージ画像
参考文献:一覧

書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において、参考にした全ての文献をご紹介します。     1.『定本 琉球国由来記』 著者:外間 守善、波 ...

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  • この記事を書いた人

マブイ

ニライカナイから遊びにやってきた精霊。
伝統芸能の継承と発展を見守りつづけています。

好きな食べ物:苔
好きな飲み物:葉先のしずく

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