工工四
歌詞
石ん根の道から てらのそばまでも
主部衆や先から みやらびやあとから
はり水におりて 船元にのぼて
片手しやくびだき 片手しやしゃくとて
目のしやいや主の前 池間崎見送ら
肝しやいや主の前 沖縄まで送ら
訳
石づくりの道を通り寺の側までも、
男衆は先を女は後から、
漲水(港町)に到着して船乗り場に向かい、
片手で首を抱き、片手で酌をとって(別離を惜しみ)、
目では船が見える池間崎までお見送りして、
心中は沖縄(本島)までお見送りしています。
主部衆
- 男衆、役人など(文献により多少解釈の違いあり)
みやらび
- 女童
- 乙女
- 娘
池間崎
- 対岸の池間島を見晴らする岬
解説
「石ん根の道節」は宮古島を管轄する琉球王国の役人が任期を終えて帰路に向かう道中を詠んだ歌曲です。
当時、離島地域の地方行政を担う機関を「蔵元」と呼び、宮古島では1525年に平良地区に設置されました。
この地区では「漲水石畳道」という名の風情ある石づくりの道があり、その周辺には寺社が点在し航海の安全を祈願したそうです。
補足
「一名献上節」
尚穆王(在位:1752年~1794年)の時代、宮古と八重山の各海岸から琉球王府が管轄する「蔵元」までの道中を詠んだ琉歌を献上する命があり、宮古は「石ん根の道節」を献上し、八重山からは「蔵の花道節」(※1)を献上しました。
「蔵の花道節」(※1)
石垣村出身の音楽家である黒島英任(1685年~1768年)によって創作された歌曲です。
節名の読みは「くら」が「うら」に変化し、「道」が省略されて「うらぬぱな」と呼びます。
略歴
■尚穆王(1739年-1794年)
第二尚氏王統 第14代琉球国王(在位 1752年 - 1794年)
統治した期間は災害が相次いだこともあり、国の基盤を建て直すための制度を整備した。
参考文献一覧
書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において参考にさせて頂いた全ての文献をご紹介します。 尚、引用した文章、一部特有の歴史的見解に関しては各解説ページの文末に該 ...
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