工工四
歌詞
いけば伊計離 もどて浜平安座
平安座前の浜に 山原が着きをん
山原やあらぬ 大和もどり
訳
行けば伊計島、戻れば浜比嘉島と平安座島
平安座島の前の浜には山原から来た船が到着している
いや、山原から来た船ではなく日本から戻ってきた船である
伊計離
- 伊計島の別称 = うるま市の勝連半島より北東約10kmの海上に位置する離島。”伊計”の語句は遠い場所という意味で、海中道路につながる平安座島と宮城島を経由して渡る。
浜
- 浜比嘉島の略称 = うるま市の勝連半島より北東約3kmの海上に位置する離島。浜集落と比嘉集落の二地区で形成されており平安座島に架かる浜比嘉大橋を経由して渡る。
平安座
- 平安座島の略称 = うるま市の勝連半島より北東約5kmの海上に位置する離島。現在、島の北半分は原油関連の施設が立地している。
山原
- 山原 = 山や森など緑豊かな自然環境が残されている沖縄県北部の一帯。
解説
「伊計離節」は勝連半島より北東に連なる緑豊かな島々と美しい青い海を往来する船の光景を詠み込んだ歌曲です。
沖縄本島より海中道路で結んだ平安座島はかつて交易の中継地点として栄えた島で琉球王国時代より戦前にかけて輸送・物流の基盤を支えてきました。
当時、平安座島から伊計島の周辺海域では大きく帆を張った山原船(※1)をはじめ、大和や奄美へ向かう百隻以上の船が常に往来し、風光明媚な景色を楽しませてくれたようです。
山原船(※1)
18世紀初頭、中国のジャンク船の構造を取り入れて造られた木造帆船。
別名、馬艦船とも呼び、水上を馬のように走ることに因んで名付けられたそうです。
造船費用と維持費が安価に収まることから急速に普及されましたが、陸路の交通整備により徐々に衰退していきました。
補足
組踊
「伊計離節」は組踊(※2)「花売の縁」、「姉妹敵討」の演奏曲として構成されています。
組踊(※2)
琉球王国時代の1719年に踊奉行(式典の際に舞台を指揮、指導する役職)の任命を受けた玉城朝薫により創始された歌舞劇です。
台詞、舞踊、音楽の三つの要素から構成された古典芸能で、1972年に国の重要無形文化財に指定され、2010年には世界のユネスコ無形文化遺産に登録されました。
舞踊演目
「伊計離節」は「谷茶前節」との組み合わせで、漁村の日常を描いた雑踊り(※3)「谷茶前」の演奏曲として構成されています。
その際、流派によっては軽快なリズムの早弾きで演奏するケースがあります。
雑踊り(※3)
明治16年(1883)頃、琉球芸能が初めて入場料を取って興行がおこなわれて以来、芝居小屋で創作振り付けられた近代の舞踊。
琉球王朝が崩壊した後、歓待芸能を職としていた者が率いて踊りを披露していました。
参考文献一覧
書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において参考にさせて頂いた全ての文献をご紹介します。 尚、引用した文章、一部特有の歴史的見解に関しては各解説ページの文末に該 ...
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