古典音楽

「荻堂口説」- 古典音楽

工工四

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歌詞

 

北山くづれの其時ふくざんくづぃりぬすぬとぅち

本部大原むとぅぶたいはら 今帰仁城に軍おしよせなちじんぐすぃくにいくさうしゆすぃ

水ももらさず取りよかこめばみずぃんむらさじとぅゐゆかくみば

按司の大将平敷大主あじぬてぇーしょうふぃしちうふぬし やぐらの上より敵を見下しやぐらぬういゆりてぃちをぅみうるし

日ごろ手なれし五尺あまりのひぐるてぃなりしぐしゃくあまりぬ (長刀打っ取り)城門おしあけ(なじなたうっとぅゐ)じょうむんうしあき

よられ(よられ)と立出でゆらり(ゆらり)とぅたちんじ 大勢群り(集る)中に(わって)飛び入りていしむらがり(あつぃまる)なかに(わっとぅ)とぅびいり

人なき所を行くが如くにふぃとぅなきとぅくるをぅゆくがぐとぅくに たてさまよこさま切りよめぐればたてぃさまゆくさまちりゆみぐりば

敵の軍勢(あらしに)(木の葉の)とぶが如くにてぃちぬぐんしー(あらしに)(くぬふぁぬ)とぅぶがぐとぅくに 四方へ(さっと)(引きよ)退くしほうへ(さっとぅ)(ふぃちゆ)しりずく

あっぱれ稀代の名将あっぱりちいでーぬみいしょう 神か仏かかみかふとぅきか

さて(さてさてさて)さてぃ(さてぃさてぃさてぃ)

 

北山ふくざん王国が落城したその時、

本部大原むとぅぶたいはら今帰仁城なきじんぐすぃくに攻め入り、

水も漏れないように城を取り囲めば、

按司あじの大将である平敷大主ふぃしちうふぬしがやぐらの上から敵を見おろし、

日ごろより手慣れた五尺あまりの長刀を構えて城門を押し開け、

ゆらりゆらりと(軽やかに)出て行くと、大勢が群がる中に割って飛び入り、

(まるで)人がいない場所を行くかのように縦から横から切ってまわれば、

敵の軍勢は嵐に木の葉が飛び散るように、四方へさっと退散していく。

これはお見事、世にまれに見る名将、神か仏か、

さてさて、さてさて。(感心したときに発する言葉)

北山ふくざん

  • 三山さんざん時代、難攻不落なんこうふらくといわれた今帰仁城なきじんぐすぃくを拠点に沖縄本島北部を支配していた勢力。
  • 三山さんざん時代 = 琉球王国が誕生する以前は、沖縄本島北部の今帰仁城なきじんぐすぃくを拠点とする「北山ふくざん」、中部の浦添城うらそえぐすぃくを拠点とする「中山ちゅうざん」、南部の島添大里城しましぃうふざとぐすぃくを拠点とする「南山なんざん」の三つの勢力に分かれて争っていた。この時代を三山さんざん時代と呼び、1416年に「中山ちゅうざん」を支配していた尚巴志しょうはしが三つの国家を統一し、後の琉球王朝が成立する。

本部大原むとぅぶたいはら

  • 北山ふくざん王国に仕えていた武将(本部平原むとぅぶたいはらともいう)。中山ちゅうざん王国との戦いの際、主君であった攀安知はんあんち北山ふくざん王国最後の王)にそむき、反逆はんぎゃくの兵をあげる。この裏切りに激怒した攀安知はんあんちによって殺害される。

按司あじ

  • 国王の親族に位置する特権階級。各地域を領地として与えられ自陣じじんの領地の名をとって家名にするならわしがある。

平敷大主ふぃしちうふぬし

  • 北山ふくざん王国に仕えていた頭役(重臣じゅうしん

 

解説

荻堂口説をぅんぢょうくどぅち」は組踊くみうどぅい(※1)「花売の縁はなういのゐん」の演奏曲として構成されている歌曲で、旅の途中に出会う猿引(猿まわし)の踊りに乗せて演奏されます。

舞台では猿にふんした子供が長刀を手に持ち、軽快な節まわしにあわせて小気味こぎみよく踊る姿は観る者の心をなごませてくれます。

七五調しちごちょうのリズムに道行の情景を述べる一般的な口説くどぅち(※2)とは異なり、「荻堂口説をぅんぢょうくどぅち」はいくさの場面を鮮やかに描写しながら定まった音数律を持たない形式で展開します。

 

組踊くみうどぅい(※1)

琉球王国時代の1719年に踊奉行おどりぶぎょう(式典の際に舞台を指揮、指導する役職)の任命を受けた玉城朝薫たまぐすくちょうくんにより創始された歌舞劇かぶげきです。

台詞せりふ、舞踊、音楽の三つの要素から構成された古典芸能で、1972年に国の重要無形文化財に指定され、2010年には世界のユネスコ無形文化遺産に登録されました。

 

口説くどぅち(※2)

七句と五句を繰り返すリズミカルな七五調しちごちょうに道行の情景じょうけいを述べていきます。かつて日本本土より伝わったふしまわしとされ、基本は大和言葉を用いて歌います。

 

今帰仁城跡

今帰仁城跡

 

「花売の縁」

首里の下級武士である森川の子むりかわぬしーはここ数年いろいろと不仕合ふしあわせなことが重なり、親子三人で暮らすことがとうとう困難な状態におちいりました。

夫婦で話し合った結果、森川の子むりかわぬしーは遠く山原やんばるの村へ働き口を探しに行き、妻の乙樽うとぅだるは身分の高い家の乳母ちいあんとして奉公ほうこうに出向いて、どちらかの暮らしが良くなったらまた家族で暮らす約束をして別れました。

それから十二年という長い年月が過ぎ去り、ようやく妻子の生活にもゆとりが見えはじめると、妻の乙樽うとぅだるは兼ねてからの約束を果たすために子供の鶴松ちるまちを連れて音信不通であった夫を探しに旅に出ます。

旅の道中で出会う猿引の芸に心をなごませたり、まき取りの老人から夫の消息を聞き付け、今も心意気を失わずに暮らしている様子を伺いながら旅を続けます。

人の往来が絶えない賑やかな大宜味村おおぎみそんの塩谷田港に到着し、夫の居場所を探していると目の前に花売の男が現われます。

乙樽うとぅだるには感じるものがあり、梅の花を買い求めたその時、花売は自分の妻と子供だと気付きます。

森川の子むりかわぬしーは自身の落ちぶれた姿を恥じて身を隠しますが、乙樽うとぅだるの説得に心を開いて、家族の再会を歓び、共に首里へ戻るのでした。

 

補足

 

節名の関連性

上述の組踊「花売の縁はなういのゐん」の乙樽うとぅだるは身分の高い家の乳母ちいあんとして奉公ほうこうに出向くことになりますが、この設定と重なる人物が組踊「大城崩うふぐすぃくくずぃり」にも描かれており、作品に登場する乳母ちいあんの出身地は中城間切”荻堂”として設定されています。

また、組踊「大城崩うふぐすぃくくずぃり」を創作した田里朝直たさとちょうちょく今帰仁城なきじんぐすぃくを舞台とする「北山崩ふくざんくずぃり」を創作していることから、「花売の縁はなういのゐん」を創作した高宮城親雲上たかみやぐすぃくぺーちん(年代不詳、18世紀後半頃)は、これらの作品に紐づけながら「荻堂口説をぅんぢょうくどぅち」を演奏曲として採用したのではないかと考察します。

 

略歴

田里朝直たさとちょうちょく(1703年-1773年)
1756年の冊封式典で踊奉行おどりぶぎょうを務める。
代表作である「万歳敵討まんざいてぃちうち」、「義臣物語ぎしんものがたり」、「大城崩うふぐすぃくくじり」を朝直ちょうちょくの三番と称す。

 


 

参考文献(沖縄の本)のイメージ画像
参考文献一覧

書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において参考にさせて頂いた全ての文献をご紹介します。 尚、引用した文章、一部特有の歴史的見解に関しては各解説ページの文末に該 ...

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マブイ

ニライカナイから遊びにやってきた豆電球ほどの妖怪です。

好きな食べ物:苔
好きな飲み物:葉先のしずく

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