工工四
歌詞
捨てる身がいのち 露ほどもおまぬ
明日や母親の 泣きゆらとめば
訳
捨てる我が命は少しも惜しいと思わぬが、
明日、母親が嘆き悲しむであろう。(それが気がかりである)
露ほども
- 少しも
- 全く
解説
「本伊平屋節」は組踊(※1)の創始者である玉城朝薫が原歌の旋律を借用して作詞を手掛け、自身の作品である「孝行の巻」の演奏曲として構成されている歌曲です。
家族や村人を救うため、大蛇の生け贄になることを決意した孝行者の娘が母親に対して別離の心情を述べた歌曲です。
「孝行の巻」の舞台となった屋良ムルチは、現在の中頭郡嘉手納町屋良の比謝川の中流に位置し、いまにも大蛇が出てきそうな神秘的な緑色が特徴的な沼池です。
組踊(※1)
琉球王国時代の1719年に踊奉行(式典の際に舞台を指揮、指導する役職)の任命を受けた玉城朝薫により創始された歌舞劇です。
台詞、舞踊、音楽の三つの要素から構成された古典芸能で、1972年に国の重要無形文化財に指定され、2010年には世界のユネスコ無形文化遺産に登録されました。
略歴
■玉城朝薫(1684年-1734年)
首里儀保村に生まれる。
琉球王国の官僚で冊封式典の踊奉行を務める。国劇である組踊の創始者であり、多くの芸術作品を生み出す。
「二童敵討」、「執心鐘入」、「銘苅子」、「孝行の巻」、「女物狂」を朝薫五番と称す。
「孝行の巻」
北谷間切にある屋良ムルチ(沼池)には大蛇が棲んでおり、暴風を巻き起こしたり、田畑を荒らして禍をおよぼしていました。
大蛇の怒りを鎮めるためには子供の生け贄を差し出さなければならず、村を管轄する役人は残された家族、親戚縁者の生活を保障することを約束して生け贄になる者を募ります。
ここに大変貧しい生活を送っていた母子家族がおり、その娘が弟と相談して母親に黙ったまま生け贄になることを申し出ます。
いざ生け贄の儀式がはじまると大蛇が踊り狂うように現れ、いままさに喰らおうとしたその瞬間、天より神が降臨して大蛇を退治し、娘を救い出します。
物語終盤では、娘の母親を思う孝行心が讃えられ、王府の御厚意により娘は王族の妃として迎え入れることになります。
補足
伝説
中頭郡嘉手納町屋良の比謝川中流に位置する「屋良ムルチ」には、大蛇にまつわる「ムルチ伝説」が現在に語り継がれています。
「ムルチ伝説」では義本王の時代(在位:1249年~1259年)に屋良村のムルチという古い沼に大蛇が棲んでいて、暴風を巻き起こしたり、住民に禍を及ぼしたりしていました。
そこで、付近の住民は童女を生け贄として捧げ、禍を鎮めていました。
ある年、非常に親孝行の娘が生け贄に選ばれ、娘は悩みましたが近隣の村々の住民を救うため、年老いた母を残して生け贄となる決意をしました。
すると、生け贄の儀式の最中に天神様が現われ、その大蛇を退治してくれました。その話を聞いた義本王はたいへん喜び、その娘を王子の妃として迎え入れ、年老いた母と共に幸せに暮らしました。
この伝説を元に作られた組踊が玉城朝薫の「孝行の巻」と云われています。
引用:「屋良ムルチ」現地案内板より(一部修正)
中昔節
「本伊平屋節」は古典音楽の中昔節(※1)の分類に属します。
中昔節(※1)
参考文献一覧
書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において参考にさせて頂いた全ての文献をご紹介します。 尚、引用した文章、一部特有の歴史的見解に関しては各解説ページの文末に該 ...
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