工工四
歌詞
一度栄えば 一度衰ふ 世の中の習
思ひ知る身の あはれ果敢なや
裾は結んで 肩に打ち掛け
やつれ出たる 姿言葉も 今に引きかへ
島の島々 里の里々 巡りめぐりて
人形買ひんしやうれ 仏買ひんしやうれ 人形の数々
起上り小法師に 若衆人形 馬乗仏
これ見で童 鳴子鼓や
ホロロンホロロン ホロホロホット
訳
一度栄えて衰えることは世の中の定めであると、
身にしみて感じる我が身のはかなさよ。
裾を結んで肩に打ち掛けを羽織り、
みすぼらしい格好と言葉にすっかり変わってしまった。
多くの島や集落を巡りめぐって、
人形をお買いくだされ、仏をお買いくだされ、色々の人形を(取り揃えてあります)
起き上り小法師、若衆人形、馬乗仏。
これをご覧なさい子どもたち、鳴子に太鼓だよ。
ほろろんほろろんほろほろほっと。
習
- 習わし
- さだめ
やつれ
- みずぼらしい姿に変装するさま
鳴子
- 木の板に木片を付けて打ち鳴らす道具。古くより農作物を荒らす野鳥を追い払うときに使用されていた。
- 近年では打楽器として用いられることもある(高知のよさこいなど)
鼓
- 胴の中央部がくびれた両面太鼓
- 太鼓の一種
解説
「道輪口説」は組踊(※1)「義臣物語」の演奏曲として構成されている歌曲で、主人公がおもちゃ売りに身をやつし、主君のご子息(若按司)を探しに出かける場面で演奏されます。(※物語あらすじは下記参照)
口説の前半部は栄枯盛衰を繰り返す人の世のはかなさに現在置かれている我が身の心境を映し重ねて詠まれており、後半部はおもちゃ売りに身をやつして村々を巡り、若按司の手がかりとなる情報を探しながら旅に出る道行を歌っています。
歌詞の最後にある”ホロロン ホロロン~”の語句の由来については諸説ありますが、歌詞のひとつ前に登場する鳴子が古くより農作物を荒らす野鳥を追い出すときに使用した道具であることから、鳥の鳴き声をあらわす擬声語として表現し、歌全体のおさまりをつけるために用いられた語句ではないかと考えます。
組踊(※1)
琉球王国時代の1719年に踊奉行(式典の際に舞台を指揮、指導する役職)の任命を受けた玉城朝薫により創始された歌舞劇です。
台詞、舞踊、音楽の三つの要素から構成された古典芸能で、1972年に国の重要無形文化財に指定され、2010年には世界のユネスコ無形文化遺産に登録されました。
「義臣物語」
沖縄本島南部の島尻大里を拠点とする高嶺の按司は、常日頃より体たらくな生活を繰り返しており、朝から晩までお酒を飲んでは遊楽に溺れ、自国の治世を顧みなかったため城下で働く民衆は苦しい境遇に置かれていました。
部下である国吉の比屋はこの状況を見兼ね、高嶺の按司に忠言しますが聞き入れてもらえず、主君に対する物言いをおこなったため役職を剥奪されてしまいます。
その後、徐々に求心力を失っていく高嶺の按司を知ってか知らぬか、敵方である首里の鮫川の按司が攻め入り、ついには落城してしまいます。
一連の騒動を知った国吉の比屋が人形(おもちゃ)売りに身をやつし、残された高嶺の按司の子ども(若按司)探し歩いて、とうとう再開を果たします。
その後、主君の仇を討つために同志を募りますが賛同する者はもはや誰もいません。
国吉の比屋はやむなく単身で敵方に忍び込むことを決意し、火攻めを仕掛けますが瞬時のところで見つかってしまい捕らえられてしまいます。
しかし、一人最後まで主君の忠誠を守り抜いた国吉の比屋に対して、鮫川の按司は心を打たれ、「親の罪科は子に及ばない」として国吉の比屋の願い通り、高嶺の按司の領地を子ども(若按司)に継がせることを約束しました。
略歴
■田里朝直(1703年-1773年)
1756年の冊封式典で踊奉行を務める。
代表作である「万歳敵討」、「義臣物語」、「大城崩」を朝直の三番と称す。
補足
舞踊演目
「道輪口説」は移り変わる季節に色めく秋の情景を描いた舞踊演目「秋の踊り」の演奏曲として構成されており、その際は下記の歌詞で歌われます。
道輪口説(若衆秋の踊り)
空も長月 はじめ頃かや 四方の紅葉を
そめる時雨に ぬれて牡鹿の
なくもさびしき 折に告げくる
雁の初音に 心うかれて ともにうちつれ
出る野原の 桔梗苅萱 萩の錦を
きてもみよとや 招く尾花が 袖の夕風
吹くも身にしむ 夕日入江の 海士のころもや
さおのしづくに 袖をぬらして 波路はるかに
沖に漕ぎ出て 月は東の 山の木の間に 今ぞほのめく
参考文献一覧
書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において参考にさせて頂いた全ての文献をご紹介します。 尚、引用した文章、一部特有の歴史的見解に関しては各解説ページの文末に該 ...
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