古典音楽

「赤田風節」- 古典音楽

工工四

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歌詞

 

赤田門やあかたじょうや つまるともつぃまるとぅん

恋しみもの門やくゐしみむぬじょうや つまてくいるなつぃまてぃくゐるな

 

赤田御門は閉まっても、

恋人に通ずるみもの御門は閉めてくれるな。

赤田門あかたじょう

  • 首里城の外郭(東側)に位置する継世門けいせいもんのこと。1544年、外敵に備えるために創建される。赤田あかた集落に面していたことから赤田御門あかたうじょうと呼ばれていたが、創建以前は継世門けいせいもんよりさらに奥に進んだところに建てられている美福門びふくもん赤田御門あかたうじょうと呼ばれていた。

つまるつぃまる

  • 閉まる

みもの門みむぬじょう

  • 御内原うーちばるに通ずる淑順門しゅくじゅんもんのこと。御内原うーちばるは国王と親族、そこに仕える女官(城人)が居住するエリアで男子禁制であった。

 

解説

赤田風節あかたふぅぶし」は宮廷内の制限された環境に身を置く女官の秘めた恋愛事情をみ込んだ歌曲です。

琉球王国時代、首里城には城人ぐすくんちゅと呼ばれる女官がつかえており、国王の身の回りの世話や城内の多岐にわたる雑務をおこなっていました。

城人ぐすくんちゅは独身の女性から選任され、御内原うーちばるという男子禁制の奥御殿で生活を共にし、中には住み込みで働く者もいたそうです。

このように制限された環境の中、恋人と忍び逢うために通った城内の門に対して自身の切なる哀情あいじょうを映し重ねてみ込んでいます。

 

継世門(赤田御門)

継世門(赤田御門)

 

補足

 

逸話

赤田風節あかたふぅぶし」が創作された背景に一つのエピソードが語り継がれています。

崎山馬追さちやまんまうぃーのツィビムティ(地名)に喜屋武子という貧乏士が夫婦二人で住んでいたそうですが、妻は背丈もあり色白で美しく、そのうえ織物も上手であったそうです。

夫は科挙こー(王府役人の採用試験)を受けるため、毎日勉強ばかりで仕事もないので毎日毎日生活が苦しくて、妻は手仕事の賃かせぎがほしいと思うようになりました。

その時に読谷山御殿よみたんざんうどぅんの公事の織子を募集していることを聞き、これはよいことを聞いたと早速応募して見ると未婚のものに限るという条件がありました。

女は何とかして勤めたい一心から未婚ですと偽って入りました。女は勤めることになり、上等の反物を織り上げました。

織り上げたらこれを内原に届けるのは、これを織った女がする習わしになっていました。

女は早速持って上がりましたら遠くから国王がお目をとめられて、御所望になりましたので女はその日から内原に留めおかれてしまいました。

そして御側女の一人に命じられてしまいました。これあるがために未婚の女に限ると採用規則はなっていたのです。

さて、愛妻が勤めから帰って来ないので夫の喜屋武子はいろいろ手をまわして尋ねてまわると、上記のことがわかりました。

未婚と偽ったものを、今更私の妻ですと申し出ることもできないで毎日酒を飲んで悶々としていましたが、ついに意を決して赤田御門あかたうじょう水走みづぃはい(下水道)より忍び込んで逢っていました。

しかし、見物門みむぬじょう(淑順門)が閉まるようになり、赤田門からはうまく入れても見物門が閉まればどうにもならないので歌をよみ、うろ覚えの仲風にのせて声だけでも妻に届けとやるせない思いをこめて歌っていました。

そうしたところ、お城よりおさがりの知念積高先生がお聞きになって、これはおもしろいと一晩で作曲し、翌日は御書院で歌っていると国王が御聞きになって何ていう節かとお尋ねになりました。

知念は名前はまだつけていなかったが、赤田門で拾った歌という意味でとっさに赤田風でございます、とお答えしたのがこの節の誕生の由来です。

引用:『嗣周・歌まくら』那覇出版社

 

略歴

知念績高ちねんせっこう(1761-1828)
沖縄県那覇市首里桃原町に生まれる。
湛水流たんすいりゅう奥平朝昌おくだいらちょうしょうに師事し、その後、屋嘉比朝寄やかびちょうきの「当流」を豊原朝典とよはらちょうてんより学ぶ。
のちに屋嘉比工工四やかびくんくんしー(117曲)に46曲を追加し、芭蕉紙工工四ばしょうしくんくんしーを完成させる。
弟子には、安冨祖流あふそりゅうを創設した安冨祖正元あふそせいげんや野村流を創設した野村安趙のむらあんちょうがいる。
二回にわたり琉球王府の楽師を務めた。

 

創作年代

赤田風節あかたふぅぶし」は『琉歌百控りゅうかひゃっこう』(※1)や『屋嘉比工工四やかびくんくんしー』(※2)には収められておらず、初出しょしゅつ知念績高ちねんせっこう編纂へんさんした芭蕉紙工工四ばしょうしくんくんしーからとなります。

 

琉歌百控りゅうかひゃっこう』(※1)

上編「乾柔節流けんじゅうせつりゅう」、中編「独節流どくせつりゅう」、下編「覧節流らんせつりゅう」の三部(全601首)からなり、1795年~1802年にかけて編纂へんさんされた最も古い琉歌集です。

 

屋嘉比工工四やかびくんくんしー(※2)

琉球音楽家の屋嘉比朝寄やかびちょうき(1716-1775)によって編み出された記譜法きふほうにより創案された現存する最も古い三線楽譜です。(117曲編纂へんさん

 


 

参考文献(沖縄の本)のイメージ画像
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