ストーリー紹介
【比嘉敬光】
プロフィール
1938年1月18日生まれ。
沖縄県出身の両親のもと、出稼ぎ先のフィリピン共和国で生まれる。
終戦を迎えた1945年、強制送還により日本へ帰国した後、沖縄県那覇市に住居を移す。
1954年に南米大陸のボリビアへ第一次移民として海を渡る。
インタビューにあたり
ボリビア第二の都市サンタクルス市内から北東へ約100km離れた場所に沖縄出身の移住者によって築かれたオキナワ村(Colonia Okinawa)があります。
1954年から1964年にかけて572世帯3,298名が海を渡りましたが、入植当時のボリビアは想像を絶するほど過酷な環境下にあり、度重なる風土病、自然災害に見舞われながら各地を転々とし、最終的に現在のオキナワ村に辿り着いた背景があります。
人間の力では遠く及ばない自然のチカラを目の当たりにし、希望と絶望を天秤にかけて一本の斧でジャングルを切り拓く..
今回のインタビューはボリビア第一次移民として海を渡った比嘉 敬光さんにお話を伺いました。
移民の足跡
戦後、生活に困窮する戦災民に向けて政府が制定した「南米ボリビア農業移民募集」の応募者の中から、当時16歳であった比嘉 敬光さんは親兄弟と共に選ばれ、一家を乗せた蒸気船は那覇港を出発し、ブラジルのサントスから陸路で目的地へ向かいます。
到着した移住地は鬱蒼とした木々に覆われた原生林の中にあり、入植直後は雨水を沸騰させて飲み水を確保し、電気もない中で夜通し作業するなど手探りで未開の地を開拓していきます。
しかし、のちに原因不明の伝染病が流行り、多くの犠牲者を出したことで止む無く転住を余儀なくされます。
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移民としての覚悟
比嘉さん
生活に足りないものは何でも自分たちで作って、日々暮らしてきました。
異国の地へ移住する覚悟をもって来ましたので、大変だと思ったことはありませんでした。
気候や風土、言葉も通じない南米の未開の地で、一つの生活基盤を築き上げることは並大抵のことではありません。
穏やかに語る眼差しの先にはいくつもの苦労や逆境を乗り越えることで辿り着いた真実が映っているのでしょう。
自作のカンカラ三線
現在、比嘉さんのご自宅にはモノづくり専用の作業場があり、移住当初から使用してきた道具や目新しい工具一式が整然と部屋の隅々に置かれています。
一家の暮らしに必要な生活用品をはじめ、ご自身の杖やカンカラ三線(※下記参照)まで比嘉さんは何でも自分で製作してきました。
日常の不便が発明を生むと言いますが、人生はうまくいかないことに価値があるのかもしれません。
人間の豊かさとは一体何なのか。
必要以上に便利になった現代において、根源的な問題を今一度問われているように思います。
開拓スピリット
ボリビアに移住してから来る日もあきらめずに荒地を耕していると、やがて小麦の生産を中心とした穀倉地帯に生まれ変わります。
これまでの道のりは決して平坦なものではありませんでしたが、機械化の導入を皮切りに大規模農業が定着するようになると、オキナワ移住地はいつしか「小麦の都」と称されるまでに成長します。
また、ボリビア国内の経済に大きく貢献したことで、当時の大統領はオキナワ移住地が果たしてきた役割を高く評価し、「国全体が追求すべきお手本」として移住者に対する敬意を表します。
故郷の芸能文化
比嘉さん
家族をはじめ同郷の仲間と助け合いながら今日までやってきました。
現在は引退しましたが、以前は子どもたちに沖縄三線を教えていました。
三線の澄み切った音色を聴くと沖縄を思い出します。
こうして故郷の芸能文化に携わることで、明日への活力に変えていったのかもしれません。
最後に
比嘉さん
何事もあきらめず、正直に生きていってください。
今日まであきらめずにやってこれたのは遠いふるさと沖縄の言葉「なんくるないさ」の精神。
近頃では「どうにかなるさ」という楽観的な意味で使われることが多くなりましたが、元来は「何事も挫けずに正しい道を歩めば、いつか良い日が来るさ」という意味が込められています。
比嘉さんのご自宅には大切に飾られている一つの額があります。
そこに書かれている言葉は「拓魂」。
ゆっくりでも一歩ずつ歩き出せば、今まで見えていなかった景色が見えてくる。
参考図書
・カントゥータ・日本ボリビア移住120周年記念号 - 発行:日本ボリビア協会会報誌