インタビュー

■創刊特別号 第1回 冠船流川田琉球舞踊団 川田 功子 - 「違いは間違いではない」

2019年6月7日

インタビュー紹介

 

【川田 功子】

川田 功子

撮影:石川 文洋氏

プロフィール

川田 松夫かわだまつお(※下記参照)の三女として、沖縄県那覇市に生まれる。
戦中戦後を琉球文化守礼会の一員として、全国的に沖縄芸能の顕現けんげんと普及に献身する。

古典の素地を敷きながら一方で創作に情熱を注ぎ、冠船流川田琉球舞踊団では「ハーリー」を代表とする創作舞踊を振付。

創作ひとり組踊「別れ遊びわかりあしび」で文化庁芸術祭に参加し、高い評価を受ける。主催する「葉月の会」では毎年、型にはまらない閃きを示し、81歳(2019年現在)を越えた今でも現役で多くの観客を魅了し続けている。

  • 川田功子かわだいさこの会 主宰
  • 全日本民族舞踊連盟顧問講師

※略歴

川田 松夫かわだまつお(1903-1981)
沖縄県真和志に生まれる。沖縄県第一中学校出身、早稲田大学卒業後、
大蔵省(現・財務省)、沖縄県庁に勤務。昭和8年に県庁を退職後、真和志村会議員を三期勤める。
琉球古典音楽家、作詞・作曲家、舞踊家。
代表曲である「西武門節にしんじょうぶし」、「想いうむい」など100余りの楽曲を初め、琉球歌劇の創作等、沖縄芸能の普及と発展に寄与すると共に、子弟の育成に務める。
主な著作に「琉球音楽歌三線筝曲綜譜」がある。

 

インタビューにあたり

記念すべき創刊第1回は、近代創作舞踊の第一人者である冠船流川田琉球舞踊団 川田功子の会代表 川田功子先生にお話を伺いました。

粛々しゅくしゅくと語られるお姿に時折みせるユーモアのある立ちふる舞いは、戦中戦後の厳しい困難の中でもわずかな希望のカケラを見い出し、81歳(2019年)を迎えた現在に至るまで焼け火箸やけひばしを握りしめて、現役で踊り続け鍛錬を繰り返したことによるあらわれであろうか。

芸を極めることにどれほどの命と時間を懸けてきたのか。
人生の燃焼度合いをはかるとそれを想像するだけで目に見えない気迫というものに圧倒される。

 

琉球舞踊との出会い

 

インタビューを始めさせて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
はじめに、琉球舞踊を始められたきっかけを教えてください。

川田 功子先生

踊り始めたのはいつのことか定かではないほど、踊ることや唄うことが暮らしの中に息づいている一家に産まれました。

父の川田松夫は琉球古典音楽家として当時沖縄の人々に親しまれ唄い継がれてきた存在でしたので、そうした父の薫陶くんとうを受けて育ってきました。

一家は、一男四女おりまして四姉妹は「芸能すること」が家族の一員の証として育って参ったように思います。長女の冠船流家元の禮子は、3歳の頃より金武良章きんりょうしょう氏(※下記参照)に舞踊を習い、4歳の時から玉城盛重たまぐすくせいじゅう氏(※下記参照)のもとへ入門していたので、そのような姉の姿を近くでみて育ってきました。

 

功子先生がご生誕された年と同じくして、第二次世界大戦が勃発しましたが、戦時中はどのような生活を送られてきましたか?

川田 功子先生

戦争が始まってからは、祖母と二人で最後まで沖縄に残っておりましたが、多くの犠牲者と家を失い、やむなく故郷をあとにして、鹿児島県と宮崎県に疎開しました。

父は四姉妹と一緒に疎開学童の子供たちに琉球舞踊を教え、作詞・作曲、振り付けをして、出来る限り子供たちの淋しさや恐怖を少しでもやわらげようと邁進していたようです。
疎開先の家でも毎日、唄・三線の音が消えたことはありませんでしたね。

 

故郷の沖縄をあとにして疎開先に移られましたが、戦中戦後の舞台活動はどのようなものでしたか?

川田 功子先生

戦時中、疎開先の宮崎で偶然にも渡嘉敷守良とかしきしゅりょう氏(※下記参照)に出会い、毎日家にいらしてくださるようになって、姉の禮子を筆頭に古典女踊りを教えて頂きました。

やがて終戦を迎えると、県を通じて多くの舞台公演の依頼があり、九州全土に渡っていろいろな地域を巡ることになります。

今振り返ると戦中戦後の苦しい時代は、出演料としてではなく御食事の提供をいただければ、仕事を引き受けたりもしていました。

その後、鹿児島県のテレビが初めて開局した時にイベントに御呼ばれし、姉二人を中心に踊る機会を頂いたのですが、終演後、日劇の関係者の方から東京に来ないかという打診を頂き、昭和28年に家族と内弟子を率いて上京することになります。

 

※略歴(順不同)

玉城盛重たまぐすくせいじゅう(1868-1945)
沖縄県那覇市首里赤平町に生まれる。
近代の沖縄芸能の大化であり、古典正統継承者。
代表する作品に、雑踊りの「谷茶前節たんちゃめーぶし」、「浜千鳥はまちどり」、「貫花ぬちばな」、「むんじゅる」、「花風はなふう」、「加那ヨーかなよー」、「あやぐ」、「松竹梅しょうちくばい」、「金細工かんぜーくぅ」、「川平節かびらぶし」がある。

渡嘉敷守良とかしきしゅりょう(1880-1953)
沖縄県那覇市首里に生まれる。
御冠船、組踊、古典女踊りの名手。
代表する作品に、時代劇の「今帰仁由来記なきじんゆらいき」がある。

金武 良章きんりょうしょう(1908-1993)
沖縄県那覇市首里に生まれる。
王朝芸能の流れを継承。
代表する作品に、創作舞踊の「赤田節あかたぶし」、「首里節」がある。
著書「御冠船夜話うかんしんやわ」。

 

上京前後の生活

 

疎開先で、沖縄伝統芸能の大家である渡嘉敷守良とかしきしゅりょう氏とのご縁があり、九州地方で多くの舞台公演をこなす日々の生活から一転し、上京するまでのお話をお聞かせください。

川田 功子先生

東京へ行く前に、大阪にいる父の友人を頼ってしばらく大阪に滞在している時期があったのですが、そこでも父は舞踊と三線を教えておりました。
上京することになる前年の昭和27年に、日劇のお正月公演に1ヶ月間出演することになり、姉の禮子と次女の朝子は雑踊りの「加那ヨー天川かなよーあまかわ」を演じ、日劇の演者には「浜千鳥はまちどり」や「前の浜めーぬはま」を指導しました。

翌年に上京してからは、同時に生活の支えということもあって舞踊の傍ら、母と父が故郷沖縄の「伝統芸能」と「お料理」を提供するお店(みやらび)を始めました。おかげさまで、今年で66年目を迎えます。

当時、沖縄に対する人々の認識は薄く、現在のように沖縄料理店もあまりみかけない時代でした。

それでも、沖縄伝統芸能に対する父の想いにご理解いただいて、ご来店くださる出会いの輪が広がり、そうしたお付き合いは今では大切な財産となっています。

 

琉球文化守礼会 冠船流川田琉球舞踊団の舞台写真

琉球文化守礼会
冠船流川田琉球舞踊団

 

お父様の川田松夫先生は、沖縄の芸能、そして故郷の純粋な心と姿を伝承し、一筋に守っていこうと「琉球文化守礼会」を創設されましたが、そこでの主な活動をお聞かせください。

川田 功子先生

冠船流川田琉球舞踊団は、「琉球文化守礼会」の舞踊部として存在し、公演は主に父がプロデュースしておこなって参りました。
疎開先の鹿児島県、その後に移り住んだ大阪、東京に支部が誕生し、たくさんの演者とスタッフの方々にご参加いただきました。

全国各地、多くの舞台に立たせて頂きましたが、主に各教育委員会の招聘しょうへい公演及び、年4回の自主公演、琉球舞踊として初めての文化庁芸術祭参加公演の他、全国無形文化財大会や能舞台による古典舞踊と組踊の研究会公演など意欲的に活動をおこなって参りました。

私自身、幼少のころより姉たちの踊り姿を見てきたのですが、この頃より本格的に創作、振付をおこなうようになりました。
現在まで伝承されている演目も、かつては誰かがはじめて作ったものだから、これからは自分のものをつくっていきたいという思いがありました。

 

川田 功子先生の若い頃。鳩間節

川田 功子 鳩間節

 

違いは間違いではない

 

功子先生の代表する創作舞踊"ハーリー"は、故郷の「南風原高校はえばるこうこう郷土芸能部きょうどげいのうぶ」で継承され、現在も踊り続けられています。こうして若い世代に受け継がれていくことはとても素晴らしいことです。

創作するうえで、大切にしているポイントや構成されているテーマはありますか?

 

 

川田 功子先生

伝統芸能である舞踊を基礎として、正しい継承の上に新たな発展を見い出していきたいと現在まで取り組んで参りました。

小さい頃から、姉たちの踊りを見てきて、学生の時代からダイヤモンドだけが宝石じゃない、ルビーだってエメラルドだって色々あるんだなと思うようになりました。

”違いは間違いではない”。

それから自分の創作したものを踊りたいという思いをずっと抱いておりました。

時は過ぎ昭和59年、踊る背中を見続けていた姉の朝子が、若くして天国へ旅立ちました。
そして同年の11月に開催された文化庁芸術祭で、姉への想いを映し重ね、創作ひとり組踊「別れ遊びわかりあしび」を演じさせて頂きました。

別れ遊びわかりあしび」は、かつてのふるさと沖縄で、葬送舞踊そうそうぶようなる古い習慣が根付いていたのですが、私は何という美しい島の風習だろうと思い、姉の死と向き合う中で、突然ニライカナイの海を見たように心の奥底から魂が込み上げてくるものを感じました。

それからというものの、創作公演のテーマは一貫して、「おなり神の島琉球、自然・人・命の賛歌」に焦点を当て創作し、演じ続けて参りました。

 

創作 ひとり組踊「別れ遊び」 川田 功子

創作 ひとり組踊「別れ遊び」 川田 功子

 

最後に

 

沖縄伝統芸能を代表する組踊に範をとり、一人で仕組む「ひとり組踊」は当時、他に類を見ず、革新的かくしんてきだったのではないかと思います。また、お姉様を若くに亡くされて身を引き裂かれる思いを感じ、それでも希望のカケラを探しながら、前に一歩ずつ進まなければならなかった。

こうして80歳を越える今もなお、現役で踊り続けていらっしゃいますが、これからの沖縄伝統芸能への想いをお聞かせください。

川田 功子先生

"目に見えないもの"

精神世界、信仰や言霊をどのように"目に見える世界"に落とし込み表現していくのか、沖縄伝統芸能の魂における創作の可能性を追い続けております。

多くの方に親しまれ旅立った主人、誇りに満ちた父、子を守り慈しむいつくしむ母、情愛に満ちた姉の血と想いは、目に見えなくとも、一度も途切れることなく今でも脈々と私の魂に生きついています。

そして今日からもまた、いつも通り稽古場では若い人たちと接し、舞台では構成などを考えながら自らがそこに立ち、また「みやらび」では昔どおり多くの方々との出会いを心待ちにして、二足のわらじならぬ三足のスニーカーを履き、次の舞台への開花を願って参りたいと思います。

琉球舞踊の持っている、明るさ、楽しさ、力強さと、命の輝きに加えて、人の和を大切に、その心と技を途絶えることなく、親から子へ、子から孫へと継承し、向後は、私共に課せられた大きなテ-マでもあります「沖縄芸能の正しい伝承と発展」にもなお一層の意をそそぎ、何歳になっても学びを怠らず、自らの人生の骨肉として研鑽けんさんにつとめていかねばと心しております。

創作舞踊 私のニライカナイの詩

創作舞踊 「私のニライカナイ」 川田 功子

 

参考文献

・季刊 悠久 - 著者:川田 功子
・花かんざし - 発行:冠船流川田琉球舞踊団

  • この記事を書いた人

マブイ

ニライカナイから遊びにやってきた精霊。
伝統芸能の継承と発展を見守りつづけています。

好きな食べ物:苔
好きな飲み物:葉先のしずく

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