ストーリー紹介
【新垣ヒトミ】
プロフィール
1937年8月10日、沖縄県那覇市に生まれる。
琉球古典音楽・野村流音楽協会の幹部であった父(佐久田 仁牛 氏)のすすめで、幼少の頃から那覇の辻にある料亭で琉球舞踊を習う。
沖縄で太平洋戦争を体験し、戦後間もなくして家族と共にペルーへ渡る。
インタビューにあたり
南米大陸の中西部に位置するペルー共和国。首都のリマは近代的な高層ビルが建ち並ぶ新市街と、かつて栄華を誇ったスペイン帝国のアンダルシア風バロック建築が点在する旧市街に大きく分かれます。
日系移住者が集う文化会館はこの2つのエリアに隣接するヘスス・マリア区に所在し、季節になると建物の通り沿いには日本の桜が優美に花を咲かせます。
今回はこちらの会議室をお借りし、戦後移民としてペルーへ渡った新垣 ヒトミさんにお話を伺いました。
移民の足跡
南米大陸において日本人がはじめて移住した国がペルー共和国と云われており、1899年に海を渡った第一次移民団にはじまり、戦後に親族を頼って渡航した呼び寄せによる移民が現在のペルー日系人社会を形成してきました。
移住当初は綿花農場やサトウキビ耕地に従事していましたが、労働は過酷を極めたうえに低賃金、未払いが続いたことにより、希望を失った移民の多くはしばらくしてこの地を去ることになります。
残された移民は言葉や風習、出自の違いから差別を受けるなど厳しい時代を過ごしてきましたが、親は自分の子供達に憎しみや復讐心を教えるのではなく、ことあるごとに理解と寛容の心を教えていったそうです。
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太平洋戦争の勃発
移住地での苦難を乗り越え、ようやく生活の基盤が整いつつありましたが、1941年に太平洋戦争が勃発すると、米国をはじめとする連合国側についたペルー政府は日本との国交を断絶し、国内に暮らす日系移民の排斥、追放に動き出します。
多くの日系移民は米軍の収容所に捕虜として強制送還され、不動産などの資産を没収されてしまいます。
また、残された移民も日本学校をはじめとするコミュニティの閉鎖、日本語の使用禁止などを強いられ、戦争が終結するまでこうした苦難の道のりが続きました。
戦中戦後の沖縄
新垣さん
戦前、ペルーへ出稼ぎに行った両親が帰国したあと、私は那覇に生まれ育ちました。
間もなくして太平洋戦争が始まると、戦火のせまる那覇の家には居られなくなり、親類を頼って具志頭(現在の島尻郡八重瀬町)へ疎開することになります。
日本で唯一の地上戦になった沖縄では凄惨な戦闘が繰り広げられ、終戦を迎えるまでに家族姉弟3人の命を失いました。
新垣さん
復興初期、父母は米軍が残した木材の切れ端で下駄を作ったり、日本軍が地下に埋めた電線のワイヤーで籠を作って商売していました。
焼け野原の何もない時代でしたから、残った家族で力を合わせて一から生活を立て直していきました。
商売人であった父母は口癖のように「お金を持ったとしても真っ直ぐに威張ってはいけないよ。稲穂が実を重くして頭を垂れるように、いつも感謝の気持ちで頭を下げなさい」と言い聞かせてくれました。あの時は難しい親だと思いましたが、今となっては感謝しています。
新垣さん
商売人の家でしたが休みの日になると、三味線踊りが好きな父と一緒に、当時は数少ない娯楽であった大衆演劇(下記※1)に連れて行ってもらいました。
舞台の内容が変わるたび、家に帰ってから物語の意味を読み聞かせてくれたことを思い出します。
また、那覇の家にいた頃、幼かった私を辻(※3)の料亭に連れて行き、沖縄の芸能である琉球舞踊を習わせていました。
戦後、親慶原にある米国将校クラブ(下記※2)で舞踊の依頼があると、夜寝てるところを父に起こされ、眠気を抑えながら踊りを披露しに行ったことを覚えています。
※参照
※1 大衆演劇
沖縄の言葉(方言)で演じられる沖縄芝居、琉球歌劇。
琉球王朝が崩壊した後、歓待芸能を職としていた士族が率いて踊りを披露していたことがはじまりとされ、時代のニーズにあわせて新しい演劇の要素を取り入れて発展してきました。
※2 将校クラブ
沖縄に駐在する米軍の社交場として使用された施設。
会議室、食堂、バー、娯楽施設が完備されていた。
※3 辻
現在の那覇市北西部に位置する地区。
琉球王国時代より、花街としての役割を果たしてきました。
料亭に従事する女性を尾類(ジュリ)と呼び、客人をもてなすために日頃から唄三線、琉球舞踊などの芸道を嗜み、太平洋戦争の時代には男手がいない中で沖縄の伝統芸能を継承してきました。
振り返らず今を生きる
新垣さん
一家3人の子を亡くした両親は、またいつ戦争が起きるやもしれない恐怖から、家族を連れて再びペルーに移住することを決意します。
沖縄から離れることはとても寂しいものでしたが、過ぎ去ったことはけして振り返らず今を生きるという心構えでいました。
また当時、父の仁牛は琉球古典音楽・野村流音楽協会の幹部に属しており、ペルーへ旅立つ際、協会の皆様方に盛大に送り出して頂いたことを、晩年、感謝しておりました。
開拓スピリット
新垣さん
家族で海を渡った後、私は帰来二世(※4)であった中城村津覇出身の夫と結婚し、移住先での新たな生活がはじまります。
当時、お金はありませんでしたが、ペルーに移住した同郷の仲間と頼母子(※5)で助け合って、床屋、パン屋など、お店を開いて日々生活を営んできました。
新垣さん
自分に言い訳を付けなければ、人間やってできないことはないと思っています。
そして、仕事は仕事が教える。やっているうちに体が覚えるようになる。
そう信じて、今日までやってきました。
※参照
※4 帰来二世
戦前、ペルーに生まれたあと、親のすすめで教育は故郷の沖縄で受けさせるために帰国し、戦後間もなくしてからペルーへ戻って来た移民二世のこと。
※5 頼母子(タノモシ)
定期的に仲間内でお金を積み立てし、資金が必要な者に対して救済する庶民同士の相互扶助システム。
沖縄では別名「模合(モアイ)」、地域によっては「合力(ゴウリキ)」、「無尽(ムジン)」とも呼ばれる。
最後に
最後になりますが、この記事をご覧になられている読者へ、一つお言葉を頂いてもよろしいでしょうか。
新垣さん
過ぎ去ったことはけして振り返らない。
前を向いて生きていれば、きっと良いことがあります。
戦争で姉弟3人を失い、自分自身も明日生きていることさえ分かりませんでした。
でも、今日まで生かされているのだから、まだ周りのために何かやれることがあるんだなと思っています。
日本ペルー文化センターの移民史料館には、海を渡った当初から大切に継承されてきた日本の教養(※下記参照)が掲げられています。
その教えをひたむきに守り抜いた日系移民の子供たちが、その後、ペルー社会に大きく羽ばたいていきます。
1990年には日系人初となる大統領が誕生し、政情不安であった国家の先頭に立って国際社会との結びつきを深めることに大きく貢献します。
日系人の勤勉さ、誠実さがペルー国民にも徐々に認められるようになると対日感情は著しく向上し、その後におこなわれた世論調査では日本が最も信頼できる国民第一位に選ばれるまでになりました。
~ 「生きる」ということは光り輝く天に向かって枝葉を広げるとともに、影がひそむ土の中へ根を張るということ。
悲しみを乗り越えた分、希望の光が花開く。
参考文書
・ペルー日系人協会 日本人ペルー移住史料館