工工四
歌詞
1.
行ちゅんどうや加那志 待ちみそうれ里前
西武門の間や 御供さびら ヨーテー
ジントー 御供さびら
2.
片袖や紺地 片袖や浅地 ヨー
何時が諸染めの 紺地着ゆら ヨーテー
染めなち呉りよーやー 吾身思や
3.
染めゆらば里前 くがらしの如に ヨー
浅地どんやらば 許ち給れ ヨーテー
ジントー 許ち給れ
4.
浅地染めらわん 紺地染めらわん ヨー
里ままどやゆる 吾身や白地 ヨーテー
染めなち呉りよーやー 吾身思や
5.
いかな山原の 枯木島やてぃん ヨー
里と二人やりば 花の都
ジントー 花の都 ヨー
6.
かせかけてうちえる 志情の糸や ヨー
寝て覚めて朝夕 布にさびら ヨーテー
幾世いちまでん かわるなよ互に ヨー
木なれば連理 比翼オシドリの ヨー
思ひ羽の契り 語れさびら ヨーテー
訳
1.
もう帰るよ(愛しい人よ) お待ちください 貴方様
西武門までお供しましょう
お供しましょう
2.
片袖は紺地 片袖は浅地
いつになったら両方(両袖)が紺地(着物)を着られるのでしょうか
染めてください 私の恋慕う人よ
3.
染めて下さるのでしたら貴方様 焦したように(濃い色に)
浅地でしたら けっこうです
けっこうです
4.
浅地に染めようと 紺地に染めようと
あなたの思うままです 私は白地ですから
染めて下さい 私の恋慕う人よ
5.
どんな山原の寂れた景色であっても
貴方様と二人でいれば花の都にいるようです
花の都にいるようです
6.
綛に掛けてある情愛の糸を
寝ても覚めても朝夕織って(夜通し、一日を通して)布地にいたしましょう
どれほどの年月が(過ぎても)いつまでも(この思いが)変わらないでいたい
木の枝のように互いが結び合って、翼を並べた(仲睦まじい)オシドリのように
男女の約束を交わし 語らいましょう
加那志
- 敬称に用いる
- 敬愛
- 尊ぶ
※加那志 = 「愛 し」の掛詞として用いる場合もある。
里前
- 「里」、「里前」は女性が思いを寄せる男性に対して使う言葉。男性が思いを寄せる女性に対して使うときは「無蔵」と呼ぶ。
西武門
- かつて存在した久米村を南北に貫く久米大道(現在の久米大通り)の北口を意味する名称。古く沖縄の言葉では北をニシ = 西と呼ぶことに由来する。※下記補足に追記
さびら
- ~しましょう。
※丁寧語に使用される語句
ヨーテー
- 相づち的?意味合いを持つ囃子詞
ジントー
- 本当に
- 誠に
※本曲では実意の意味合いを持つ囃子詞
諸
- 多く
- 両方
思や
- 思う、慕う人を指す語句
山原
沖縄県北部の地域一帯。山や森など緑豊かな自然環境が残されており、山原地域固有の植物や動物が生息している。
綛
- 綛枠で糸を輪にして束ねた状態のこと
志情
- 人を思いやる心
- 心持ち
- 情愛
- 情け深い
- 憐みの心
連理
- 根元が別々の二本の枝がくっついて木目が合わさって連結している様子。四字熟語の「比翼連理」 = 仲睦まじい、相思相愛の仲、夫婦仲を例えている。
比翼
- 二羽の鳥が一体となって羽を重ねている様子。四字熟語の「比翼連理」 = 仲睦まじい、相思相愛の仲、夫婦仲を例えている。
解説
「西武門節」はかつて那覇の北西部に存在した辻村(※1)の花街を舞台に、つかの間の別れを惜しむ男女の機微を表現した歌曲です。
愛しい人に思いを寄せる恋情を染め物に映し重ね、内なる思いをひたむきに燃焼させる女心を詠み込んでいます。
「義理・人情・報恩」を第一の信条に掲げ、戒律の厳しい花街の社会に生きる女(尾類)のはかない恋物語を描いています。
※夜香木(ナイトジャスミン)は夜になると白い花が咲き、高貴な香りを放ちます。この様子を花街に生きる女(尾類)の姿に映し重ね、別名ジュリバナと呼ばれています。
辻村(※1)
当時の財政界の要人、官公庁、教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会がおこなわれた花街。
辻村で働く女性を尾類と呼び、お客をもてなすために料理や三線、箏、踊りなどの芸事を日々磨き、沖縄県下最大の社交場として名をはせました。
辻村は女性が主体となって生活していた場所で、アンマー(尾類の抱え親、貸し座敷の女将)を筆頭に、ジュリ、ナシングヮ(アンマーが産んだ子供)チカネーングヮ(貧困のために幼い頃に売られた子)などで擬制的家族を構築し、辻村の親、姉妹はもとより、故郷の親、兄弟をはじめ、人間社会における「義理・人情・報恩」を第一の教えとして生活してきました。
また、神への祈りと祭りを取り仕切る「盛前」と呼ばれる神職を中心とした女性による、女性のための自治組織を整え、二十日正月の「ジュリ馬」行事を始め、言葉、立ち居振る舞いから、衣裳、髪型、料理、芸能に至るまで格式のある独自の文化を創りあげます。
1672年に誕生した華やかな辻村も1944年(昭和19)10月10日の空襲により消滅し、その歴史に幕を閉じました。
参考:辻村跡案内板
補足
歌劇・舞踊
当初、「西武門節」は「ヨーテー節」という節名でありましたが、辻を舞台に創作した琉球歌劇「西武門哀歌」の演奏曲に組み入れたところ、いつしか「西武門節」と呼ばれるようになりました。
民謡曲として歌うときは歌詞が六番まで続きますが、舞踊曲の場合は歌詞が四番までで構成されています。
西武門
節名の由来となる西武門(久米大道の北口)が、現在どこに位置するのか昔の地図を重ね合わせたところ、西武門交番周辺に存在していたことが確認できます。
西武門節の起源
特集記事のカテゴリーでは、「西武門節」の起源について詳しく解説しています。
「西武門節」の起源
はじめに 島の暮らしの中で生まれた「民謡」は地域ごとに根付いた風土や言葉をのせて、今日に至るまで脈々と庶民の間で歌い継つがれてきました。 島瓦の軒先から流れる三線の音色は人々の心証しんしょうに寄り添い ...
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参考文献一覧
書籍/写真/記録資料/データベース 当サイト「沖縄伝統芸能の魂 - マブイ」において参考にさせて頂いた全ての文献をご紹介します。 尚、引用した文章、一部特有の歴史的見解に関しては各解説ページの文末に該 ...
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