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「西武門節」の起源

はじめに

島の暮らしの中で生まれた「民謡」は地域ごとに根付いた風土や言葉をのせて、今日に至るまで脈々と庶民の間で歌いがれてきました。

島瓦の軒先から流れる三線の音色は人々の心証しんしょうに寄り添い、明日への勤労きんろう源泉げんせんにかえていきます。

 

島瓦の家

島瓦の家

 

新民謡

かつて沖縄で「民謡」と呼ばれるものは、作詞・作曲者がいずれも不詳ふしょうで、はじめに誰が歌い出したか分からないような古くから伝わる歌物を指し、それに対して昭和のはじめ頃から作られた 作詞・作曲者がはっきりしている歌物を当時は総称して「新民謡」と呼んでいました。

汗水節あしみじぶし」を作曲した宮良長包みやらちょうほうをはじめ、「移民小唄いみんこうた」の普久原朝喜ふくはらちょうき、「西武門節にしんじょうぶし」の川田松夫かわたまつおがその時代の先駆であり、沖縄民謡の昭和史においては情歌や労働歌を中心に数多くの作品が誕生しました。

 

川田 松夫

明治36年(1903年)、沖縄県真和志まわしに生まれる。沖縄県第一中学校出身。早稲田大学卒業後、大蔵省に入職する。その後、沖縄に戻り、県庁に勤務した後、真和志まわし村会議員を三期勤める。

代表曲である「西武門節にしんじょうぶし」、「しみどぅするぬが」、「想い」など百余りの楽曲をはじめ、琉球歌劇の創作、沖縄芸能の普及と発展に寄与すると共に子弟の育成に務める。

琉球文化守礼会を発足し、古典芸能の伝承につとめるかたわら、故郷の民謡の明日への思いを巡らせ、琉球民謡協会の会長に就任し、沖縄民謡界の新生面しんせいめんひらくために尽力する。

 

川田 松夫

川田 松夫

 

西武門節の起源

昭和7年(1932年)、松夫は第一作目となる「一日橋心中」を世に送り出すと、同年に「西武門節にしんじょうぶし」を発表する。

当初、「西武門節にしんじょうぶし」は「ヨーテー節」という節名であったが、辻を舞台に創作した琉球歌劇「西武門哀歌」の演奏曲に組み入れたところ、いつしか「西武門節にしんじょうぶし」と呼ばれるようになった。

巷では「ガンチョー、フルガンチョー、チャンナギレー」という囃子詞はやしことばを耳にするが、これは元ある歌詞ではなく、本来は「ジントー、御供(ウトゥム)サビラ」と作詞しており、松夫はその時代の人の生きざま、そして何よりも情(なさき)を大事にした。

原歌の言葉や趣向を借りて、新しく歌を作ることは琉球王国時代より盛んに行われてきた作歌法さっかほうであり、こうして作者の手を離れ、どこかで歌いがれていることは感慨深いものである。

 

夜香木の花(ジュリバナ)
「西武門節」- 沖縄民謡

工工四 印刷・保存 【工工四について】   歌詞 1. 行ちゅんどうや加那志いちゅんどうやかなし 待ちみそうれ里前まちみそうれさとぅめ 西武門の間やにしんじょうのえだや 御供さびらうとぅむさ ...

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西武門節に関する誤った情報

今から50年前の昭和49年(1974年)、「西武門節にしんじょうぶし」の起源に関する誤ったインタビュー記事が月刊誌「青い海」に掲載される。

この件に関しては、のちに松夫が提出する「證明願」の調印をもって和解に至ったが、当時刊行された「青い海」の書籍は現在も古書店を中心に出回っている。

また、「西武門節にしんじょうぶし」をスマホで検索すると沖縄民謡を解説したサイトやブログなどでは、この書籍に基づく関連資料を参考にしたものがいくつかあり、インタビュー記事と同様に誤った情報が散見される。

以上のことを踏まえ、これまでの史的見解を是正するため、本文では「青い海」に掲載されたインタビュー記事と、松夫が提出した「證明願」を照らし合わせて要約する。

※「青い海」1971年に大阪で創刊。
本書は沖縄の文化総合誌として、歴史や文化、民俗などを特集し、若い世代や新しい沖縄のエネルギーをテーマに掲げる。

 

證明願・要約

1974年12月発刊「青い海No.38」の見開き6ページ(P.102~P.107)に渡り、川田松夫のインタビュー記事「創作民謡の今と昔」が掲載される。

本書(P.103)には「西武門節にしんじょうぶし」の起源について、「羽地にあった民謡に私が歌詞をのせた」と書かれているが、実際に取材で話した内容とは異なるため、松夫は担当記者に対して記事の訂正を求めた。

その際、提出した「證明願」には、「羽地にあった節名は知らないが面白い歌詞『朝どりと夕どり屋嘉地漕ぎ渡て、我部の平松に思い残ち』という歌詞があって、その歌詞が下地になって『ヨーテー節』を私が作詞作曲した」とあり、続けて「勿論、作詞作曲とも私であって羽地民謡ではありません」といている。

また、「西武門哀歌という劇を書き、その中で『西武門の間やうとぅむさびら云々』の歌詞を使って歌ったのが、いつの間にか節名が『西武門節』になった」と記してあり、以上の文脈から『ヨーテー節』の節名に関しても松夫が名付けたものであることが読み取れる。

尚、取材する条件として対談内容をカセットテープに録音し、一度原稿を確認してから搭載とうさいするよう事前にお願いしたが、約束は履行りこうされず刊行に至った背景がある。

本件「證明願」を提出するにあたり、以下の内容が記されている。

「カセットを取り寄せて、誤記である旨を書いて頂くようお願いしたが、印鑑を持参していないから年内に取寄せて家で書いてきますとのことでしたが、今日まで何たることもないので、私も目が不自由ですが思いきって(證明願を)書いた訳であります。」

その後、松夫が申し出た内容に間違いなことが証明され、青い海出版株式会社(大阪本社・文化事業部長)の印を受け、昭和50年(1975年)1月18日をもって和解が成立する。

 

「證明願」川田松夫 著

「證明願」川田松夫 著(昭和五十年一月十八日付)

 

※プライバシー保護のため、個人名は伏せています。また、画像の転用を防ぐため、画質を落として公開しています。

 

最後に

最後に川田松夫氏が晩年に残した言葉を拝借し、本文を締めくくりたいと思います。

 

祖先の残された偉大な芸能文化を正しく伝承し、新しい時代感覚に基づいて創造していくということは、私共に課せられた義務と考えて、その事業にたずさわり長い月日が経ちました。古典音楽から民謡、組踊研究から琉球舞踊と、あらゆる芸能を勉強したと申しましても、芸能の道に終点があるはずはございません。この年齢になって、尚未だに日新しい発見をしては喜びを見出している今日この頃でございます。

 

参考文書

・花かんざし/発行:琉球文化守礼会

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マブイ

ニライカナイから遊びにやってきた豆電球ほどの妖怪です。

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